深き森で
見るからに、厄介そうな森だった。
険しいところばかりではなく、比較的ゆるやかなところも多いと聞いたが。それでもとにかく、広いのだ。真っ直ぐ迷わず抜けたとしても十数日は掛かるだろう。しかも、迷わず森を抜けること、が目的というわけでもない。
入り口で思わず立ち止まり、ゲオルグは小さく溜め息をついた。
ともかくこの森に入らなければ始まらない。そして、入ったら最後、戻ることは許されないのだ。
「・・・・・・行くか」
ゲオルグは小さく呟いてから、その足を再び前へと動かした。
それから数十分。ゲオルグは、迂闊だったかもしれない、と少し後悔をしていた。
森はうっそうとしていて、木々が空を埋め尽くす勢いで上に向かって伸びている。湿った空気、湿った草木、遠くでは獣の遠吠えも聞こえる。
ゲオルグを悩ませているのは、しかし、森が思っていた以上に険しかったことではなかった。これまで何度も様々な難所をくぐり抜けてきたゲオルグにとっては、この程度の森など平野と変わらない。
だが、先達たちが何度も行き来したのだろう、この森にはいくつもの獣道があったのだ。森の北へ出るだろう道、西にあるという大きな湖に辿りつくだろう道、他にどこに続くかもわからない道まで、無数に。
「・・・見当も付かんぞ」
溜め息まじりにぼやいて、ゲオルグは自分がいかに楽観的な観測で以って動いていたか思い知る。いや、正確にはそうではない。僅かな望みに縋り、大丈夫だと自分に言い聞かせることしか、ゲオルグには残されていなかったのだ。
その先に続く道は誤っているかもしれない。だとしたら、だからこそ、少しでも早く辿りつき、違ったときはまた別の道を選び直すしかないだろう。
「・・・・・・行くさ」
自分に言い聞かせるように呟いて、ゲオルグはまた歩き出そうとした。
そのときだった。
「・・・・・・?」
ゲオルグは人の気配を感じた。
それも、降って湧いたように、唐突に。さっきまで、周りには小動物の気配しかなかったはずだ。
愛刀に手を掛けて、ゲオルグは気配の方向へ意識を集中させた。敵意は感じない。だが、向こうもこちらを窺っていることはわかった。
「・・・誰だ、出て来い」
自分のほうが格上だ、そう判断したゲオルグはそう呼び掛けた。そうすれば素直に姿を見せる、なんて思ったわけではないのだが。
気配のする方向、ゲオルグの前方右斜めの辺りから、がさりと草を掻き分ける音が聞こえた。続けて、声が、そして姿が。
「・・・あのー、こんにちはー・・・?」
妙に、抜けた声だった。ゲオルグは、その声の主を、ついじっと眺める。
まず目を引くのは、腰辺りまである光沢を持った豊かな金髪。それから、海とも空ともつかない不思議な色彩をした、青い瞳。すらりとした体躯を、簡素な着物で包み、裾から覗く肌は陽を木々がさえぎる薄暗い中で、いっそう白い。
緑だらけの森の中で、それらの色彩ははっとするほど鮮やかだ。
「・・・・・・あの、旅の人ですよね? 迷ったんですか?」
ゲオルグが思わず目を奪われるほどの美貌を持った青年は、首を僅かに傾げながら、探るようにゲオルグを見つめてきた。その視線は、しかしどこか無邪気で、ゲオルグに不快感を与えない。
「あ、迷ったんだったら、オレが道案内しましょうかー?」
「・・・・・・・・・」
何故か、どこかうきうきした様子で持ち掛けてくる青年を、ゲオルグは返事は返さず改めて上から下まで眺めた。まずその美貌に目が行ったが、綺麗な青年だ、で終わらせられない姿をしている。
こんな森の中で、こんな軽装の人間が、いるはずがない。
「・・・なんのつもりか知らんが、正体を見せたらどうだ?」
青年の正体を確信しながら、ゲオルグは静かに言った。低いその声は、しかし決して脅すような声色でない。
一瞬きょとんとしたように目を丸くした青年は、それがわかったのだろう、次の瞬間には笑っていた。
「・・・ばれちゃいました?」
失敗したとぺろりと舌を出す青年の仕草は、子供のように無邪気なもので、ゲオルグもつい苦笑する。
「わからんはずないだろう。普通の人間が、こんな森の中に、ろくな装備もつけずいるはずがない。靴すら履かずに、な」
「・・・追い剥ぎにあった可哀想な人かもしれないじゃないですかー」
「そんな奴が、道案内しましょうか、などと言うか?」
「あ、オレの言葉ちゃんと聞こえてたんじゃないですか。だったら返事下さいよー!」
押し問答のようなやり取りをしながら、しかしゲオルグは自分が楽しんでいることに気付いていた。ぽんぽんと返ってくる耳障りのいい声が心地いい。
「さらに、さっきまでこの辺りに人間の気配は全くなかった。となれば、考えられることは限られる。知り合いにも似たようなのがいるしな」
「へー、仲間かー。それ、ちょっと、オレに不利ですよねー。まぁ、別に隠すつもりもなかったんですけどねー。あ、負け惜しみとかじゃないですよー?」
「どっちでも構わんさ」
わざとわしく頬を膨らませたりしながら言う青年に、ゲオルグは肩を竦め、それからにやりと笑う。
「ともかくお前の正体は、半妖、だろう?」
「・・・・・・大正解ー」
ゲオルグがずばり言えば、青年は、あっさり見抜かれたことがやはり少々悔しいのか僅かに口を尖らせながらも、認めた。
半妖、もしくは半獣。その名の通り、地方によって妖しとも獣とも呼ばれるものたちと、人間との間に産まれた生き物である。能力、その程度に差があり、中には人と全く変わらない姿をしたものや、限りなくそっくりに化けることができるものもいる。そしてこの青年は、着ているものから後者だろうと、ゲオルグは判断したのだ。
「まぁ、ばれちゃったら仕方ないですねー」
青年は肩をすくめ、それからしかしどこか嬉しそうに笑う。
「正直言って、この姿をずっと保っておくのって、ちょっと大変なんですよねー」
そして青年は、言うなり、その姿を変えた。その変化は、しかしゲオルグが予想していたよりも、ずっと小さなものだった。
「・・・それで終わりか?」
ゲオルグは疑問を思わず声に出してしまう。てっきり動物か何かの姿に戻るかと思っていたのに、青年はぱっと見にはそのままだったのだ。
ただ、耳が、一目で獣とわかる、やわらかそうな毛並みがついたものに変わった。そして、青年の腰の下辺りから覗く、あれは尻尾だろう。こちらも触り心地がよさそうにふわふわしていて、形は狼のようだが、全体的に黄色く先が白くなっているから、むしろ狐なのだろう。
人間にそんな獣の耳と尻尾がついている、というのは妙な姿だった。
半妖は、この青年のように変身過程ならこんな姿になるが、基本的には完全に獣か人間か、どちらかの姿に分かれるのだ。
見慣れない光景に、視覚的になんとなく落ち着かないゲオルグだが、青年はあっさり頷く。
「耳と尻尾を隠すのだけでも大変なんですよー?」
「それを言うなら、人型を取ること自体が大変だろう」
「でも、そしたら言葉喋れないんですよー」
「・・・・・・」
つまり、わざわざ半端な姿でとどめておいて、ゲオルグに何か伝えたいことがあるのだろうか。そう考えて、しかしそうとも限らないなとゲオルグは思い直した。ここは人が頻繁には訪れない森の中、ただ単に話し相手が欲しいだけなのかもしれない、と。
「・・・それで、俺の前に姿を見せた理由は?」
「あ、それは言ったじゃないですかー」
青年は始めのときと同じように、どこか楽しそうに言う。
「迷ったんだったら、道案内しますよー、って」
「・・・・・・」
ゲオルグは、青年をじっと見つめた。笑って言った青年の、その言葉が嘘には聞こえない。
騙そうとしているのではないか、そう疑おうとする自分も、確かにいる。だがゲオルグは、何故だが思った。この青年は、信じられる、と。
今のゲオルグは簡単に人を信じることは出来ない状況にある。だが同時に、何も信じられなくなれば、それこそ終わりだと、ゲオルグは知っていた。
少ないが、確かに信じられるものが、ある。この青年は、信じられる。
「・・・迷ってはいないが、道を選びかねている」
ゲオルグは青年の瞳を見据えたまま、隠さず偽らず自らの希望を告げた。
「追っ手を撒こうと思うなら、どの道を選べばいい?」
「・・・・・・」
青年はぱちぱちと、何度か目を瞬かせる。さすがに怪しむだろうか、ゲオルグは思った。青年にとっては、ゲオルグのほうこそ得体の知れない人間だろう。
だが青年は、にっこり笑って、言ったのだ。
「そういうことなら、オレに任せて下さい!」
人は表情や身振りで感情を伝え、動物は耳や尻尾の動きでそれを伝える。それが、どちらもあるのだから、青年の感情はより真っ直ぐゲオルグに伝わった。
裸足なのに軽くステップを踏みながら跳ねるように歩くのに合わせて、ふわふわと気持ちよさそうに尾も揺れる。楽しそうに笑いながら、ゲオルグを振り返る。
何故かはわからなくても、その事実だけはわかった。この半妖の青年は、どうやらゲオルグに好意を持っているらしい。
「あ、オレ、カイルって言いますー」
「・・・・・・あぁ、そういえば、まだ名乗ってもいなかったな」
言われて、ゲオルグはやっとそんなことを思い出した。まだ名前も教え合っていない相手を、何故、益々ゲオルグは不思議に思ったが、その疑問はひとまず置いておくことにする。
誰彼構わず名を教えるわけにはいかないゲオルグだが、カイルと名乗ったこの青年になら、いいだろうと思った。
「俺は、ゲオルグという」
「ゲオルグ・・・ゲオルグ・・・・・・」
教えると、カイルはゲオルグを見つめながら、何度かその名を反芻する。それから、顔を綻ばせた。
「ゲオルグ殿、ですねー」
「・・・・・・いや、ゲオルグ、で構わんが」
嬉しそうにまた歩みを再開したカイルを追いながら、ゲオルグはそういえばこの青年が、気さくそうな雰囲気のわりには最初から一応丁寧語と呼べるものを使っていたことに気付く。
「そういうわけにはいかないですよー、お客さんみたいなもんですからー!」
「・・・そういうものか?」
「はいー。あ、でも大丈夫ですよ、お金取ったりしませんから! オレの趣味みたいなものですねー」
「・・・・・・」
つまり、ゲオルグに対する好意というより、人間に対する好意と捉えるべきなのだろうかとゲオルグは思った。どうやらこの森を棲み家にしているわりには、カイルには初めから人間に対して変に警戒した様子がない。
「よく、こんなふうに道案内をしているのか?」
「そうですね、結構してますよー。他にすることもないですから」
だったらどうしてこの森を出ないのか、ゲオルグは気になったが、しかしあまり内側に踏み込むべきではないだろうと思い直した。
問うことを、やめようとは、何故か思わなかったのだが。
「だが、相手によっては、危ないんじゃないか?」
「大丈夫です、オレ、こう見えて結構強いんですよー? ゲオルグ殿には敵わなさそうですけど。それに、ちゃんと人を選んでますからー。一番ポイント高いのが美人の女性ですねー。いいですよねー、見てるだけで幸せ気分になれちゃいますもん」
「・・・・・・」
誰かを思い出しているのか言葉通り幸せそうに笑うカイルに、ゲオルグはある可能性を思い付く。
「・・・つまり、そういうお前の目に適った人間なら、たいていは声を掛けているのか?」
「まぁ、そうですねー、美人さんでも、問題ありそうな人だったら遠慮しますけど、基本的にはたいてい」
「そうか・・・」
それならば・・・と、考えようとしたゲオルグは、しかし次のカイルの言葉に思わず思考を停止してしまった。
「それにオレ、人を見る目には自信があるんですよー。小さい頃、いろいろ痛い目見てるんで」
「・・・・・・」
カイルはさらりと、特になんのこだわりもないかのように言ったが。
だがゲオルグは、それを聞き流し、自分の考えに没頭する気にはなれなかった。
人によって地域によって、半妖に対して好意的な人もいれば、あからさまな嫌悪を向ける人もいる。人でもあり獣でもある半妖は、同時に、人でもなければ獣でもないのだ。どちらにも馴染めず孤立してしまった半妖を、ゲオルグは何度も見たことがあった。
おそらくカイルも、たとえこの森から出たことがなくても、人間に負の感情を向けられたことがあっただろう。危害を加えられたことも、あっただろう。
ゲオルグは、そんな境遇にある半妖なら今まで何度も見てきた。だが、それでも所詮他人事だと、ゲオルグは深く関わらず生きてきたのだ。
今だって、どうせこの森を出るまでの付き合いなのだから、カイルの話だって聞き流せばいい。そう思うのに、ゲオルグはどうしてか、流してしまうことが出来なかった。
「人間を、嫌いにならなかったのか?」
「なりませんよー。だって、嫌な人もいるけど、いい人もたくさんいるじゃないですか。だからオレ、人間が好きです!」
一点の曇りもない口調で、笑顔で、カイルは言った。
「・・・そうか」
迷いのないカイルに、だったら何故この森を出て人と共に暮らさないのか、さっきも気になったことをゲオルグは聞きたくなる。どうせ少しの間の付き合いなのだから、あまり深入りすべきでないとわかっているし、そもそもゲオルグは、人の内側に触れるのを苦手としている。
それでもゲオルグは、その答えを、知りたくなった。
「ゲオルグ殿ー」
しかし、ゲオルグが躊躇いを振り払って問いにする前に、カイルがわざわざゲオルグの隣にやってきて言う。
「今度はゲオルグ殿の話を聞かせて下さいよー!」
話題を変えたい、というわけではなさそうだ。ゲオルグを見上げるカイルの瞳は、好奇心できらきら輝いている。
「・・・特に話すことなどないが」
「なんでもいいですよー。たとえば、食べ物は何が好きですか? 山の幸なら、なんでもとってこれますから、任せて下さいー!」
ぐっと手を握ってカイルは意気込んでみせた。親に褒めてもらおうと頑張る子のようなその様子に、ゲオルグはつい微笑ましい気分になる。
この森は広い。いくらよく知るカイルの案内であっても、数日は掛かるだろう。
疑問はひとまず先送りにしよう、ゲオルグはそう思った。
To be continued ...
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最初は昔の日本ぽい舞台設定だったのです。(だから森にいる代表的なあやかしは妖狐かな?と)
・・・いつものことながら、尻尾の存在感が薄くて悔しい限りですよ!