惑い揺らぐ心



 もぞもぞ、と胸元で何かが動く気配に、ゲオルグは覚醒を促された。
 ぬくもりとやわらかい感触を伝えるそれは、尾を振りながらふわりと、ゲオルグの懐から出て行ってしまう。
「・・・朝か」
 ゲオルグは上を向いた。相変わらず繁った木々にじゃまされて空は見えなかったが、それでも夜と比べて辺りは明るい。
 続いてゲオルグが視線を下げると、先ほどゲオルグの懐から抜け出た小さな獣が、ゆっくりと姿を変えるところだった。
 あたたかそうな毛並みに全身を覆われた生き物が、一瞬にして長い手足を持った人間へと変化する。相変わらず、耳と尻尾だけは、獣の名残を残したままだったが。
「すみません、起こしちゃいましたねー」
 その半妖の青年カイルは、申し訳なさそうにゲオルグに言った。
「ゲオルグ殿が起きる前に、朝ごはんでも獲ってこようと思ったんですけど」
「いや、構わん。どの道、ゆっくり眠ってもおれんからな」
 カイルといるとたまに忘れそうになるが、ゲオルグにはのんびりしている余裕はないのだ。
 早速立ち上がろうとするゲオルグを、しかしカイルはとめた。
「ダメですよー、朝ごはんはちゃんと食べないと。そうしないと、元気が出なくて、疲れるのも早くなっちゃうんですよー?」
「・・・・・・」
 真剣に、諭すように言うカイルに、ゲオルグは急く気持ちが静まるのを感じる。
 ゲオルグが再び腰を下ろして木に凭れ掛かると、カイルは嬉しそうに笑って、それから木々の間に消えていった。
 それを見送りながら、ゲオルグは不思議な気分に襲われる。
 この森に入るまでのゲオルグは、悲壮とも言うべき覚悟を抱えていた。今思えば、随分と張り詰めていた。
 それが、カイルといると、その隙のない緊張がゆるんでしまっている気がするのだ。
 だがゲオルグには、それが悪いことには思えなかった。張り詰めた神経は、つまり同時に余裕がないということでもあり、ひどく脆くもある。
 そんな気負いや必要以上に深刻になることを、カイルの存在がそっと消してくれるのだ。こんなときにではあるが、ゲオルグはカイルといると、心が安らぐのを感じた。カイルの持つ空気が、とても心地よい。
 何故そんなふうに感じるのか、ゲオルグにはわからない。会ったばかりなのに、何故。
 わからなくても、その事実だけは確かだった。ゲオルグはカイルに、惹かれている。
「ゲオルグ殿、お待たせしましたー!」
 ほどなくして、カイルが戻ってきた。両手に木の実や果実を抱えて。
 そしてそれらをゲオルグの前に並べて、ゲオルグを見上げる。まるで、獲物をしとめて主人に褒められるのを待つ犬のように。瞳を輝かせて、ゲオルグを見つめるのだ。
 カイルも、ゲオルグに並々ならぬ好意を寄せている。理由はわからなくとも、それもまた、確かなことだった。
「・・・いつも、すまんな」
「いいえー。好きでやってることですから!」
 迷わず答えるカイルの笑顔は、ゲオルグの心に小さな波を立てる。心地よかった。
「でも、意外ですよねー、ゲオルグ殿が甘いものに目がないなんてー」
 カイルは不思議そうに、蜜がたっぷりの林檎を選んで齧るゲオルグを見る。
「よく、そう言われるな」
「でしょうねー。どっちかいうと好きじゃなさそうに見えますもんねー」
 可笑しそうに笑ってから、カイルは少し眉を寄せた。
「オレも好きですけど、でも、この森にあるものしか食べたことないから・・・ゲオルグ殿が一番好きだって言う、ちーずけーき・・・でしたっけ? それも、想像も付かないですー・・・」
 確かに、森で得られる甘いものといえば、果物か花などの蜜に限られる。
「・・・食ってみればいい。あんなに美味いものはないぞ」
 この森にいる限り、食べることは出来ない。そうわかっていて、ゲオルグは敢えてそう言った。この森を出れば、食べられるのだ。
 だがカイルは、ゆっくりと首を横に振る。
「・・・ダメです、オレには食べれないです。これからも」
「・・・・・・」
 この先もずっと、この森で暮らしていく。カイルの言葉からは、その思いが容易く読み取れた。
 ゲオルグは迷う。一歩踏み込むべきか、それとも引き返すべきか。これまで何度も迷った。そして結局いつも、触れずにきた。
 だが。問いを重ねるうちに、カイルの言葉が変化してきた気が、ゲオルグはしていたのだ。
 この森から出ない。この森から、出られない。
 その小さな変化が、ゲオルグの背を押す。カイルの背を押せ、と。
「・・・何故お前は、この森から出ようとしない?」
 ゲオルグは遂に、問いを口にした。
「人間が好きだと言いながら、何故人と共に暮らそうとはしない?」
「・・・・・・」
 カイルは少し驚いたように、目をぱちぱちさせた。
 おそらくカイルも気付いていたのだろう。ゲオルグが、そのことに今まで触れずに来たことを。
 それなのに今問いにした、その意味を図ろうとしているのかもしれない。
 だがカイルは、すぐに笑顔に戻った。その笑顔には、しかしどこか陰がある。
「・・・好きだから、嫌なんです」
「・・・・・・」
 その言葉を、ゲオルグはすぐに理解することが出来なかった。
 好きだから、嫌われたくない。そういうことなのだろうか、ゲオルグに思い付くのはそれくらいだった。
 目の前のカイルは、ひと目で人間ではないとわかる。獣の耳に尻尾。完全な人間の姿を保っているのは疲れる、とカイルは言っていた。ゲオルグはもうすっかり見慣れてしまったが、そんな生き物を受け入れられない人間もいるだろう。
 だがカイルは、ゲオルグの視線から言いたいことを読み取ったのか、尻尾を軽く引っ張ってみせた。
「この姿、結構女性には受けがいいんですよー? きゃー、かわいい!とか言われたり。そりゃあ嫌がる人だっていますけど・・・。でも、オレのこと100人が嫌いだって言っても、1人でも好きって言ってくれる人がいるなら、オレは大丈夫です」
「・・・・・・」
 それは、この森で人と接しながら身につけた、カイルの強さだろう。
「ならば、森を出ることも、可能だろう?」
「・・・そうなんですけどね、オレの気持ち的には」
 それ以外の障害があるのだと、カイルは言外に言う。
 先を急ぐ、ちょっと前にそう言ったにも関わらず、ゲオルグはカイルが話し始めるのを急かさず待った。
「・・・オレ、物心付いた頃からこの森にいて・・・ずっと長いこと、この森が世界の全部だと思ってたんです」
「・・・無理ないだろうな」
 そう思わせるに充分なほど、この森は広い。両親のことなど気にはなったが、今は問わないことにした。
「でも段々と、そうじゃないって、わかってきて。この森の外に、もっと大きな世界があるんだって知って。そこには人間や、オレみたいなのもたくさん住んでて。・・・憧れました」
「・・・・・・」
「だけどオレは、この森での生き方しか知らなくて・・・オレに出来ることはこの森を案内することくらいで、オレの特技といったら・・・」
 カイルはゆっくり立ち上がると、一瞬にして姿を変えた。
「こんなふうに、化けることしか、出来なくて」
「・・・っ!!」
 ゲオルグは思わず目を見張った。目の前に、もう一人、自分がいるのだ。
 カイルが変化したのだとわかっていても、そうとしか見えなかった。容姿も服装も、ゲオルグそっくりだ。よほど親しいものでなければ、本人ではないと見抜けないだろう。
「・・・すごい特技だな」
 ゲオルグは率直に感心したが、すぐに元の姿へと戻ったカイルは、首をゆるく振り目を伏せた。
「こんなオレが外に出たら・・・人間を騙す生き方しか出来ないと思うんです。でもオレはそんなことしたくない。だからオレは、これからもこの森で暮らしていくんです」
 カイルは、静かに笑った。
「ここなら、オレは誰にも負けないくらい、人の役に立つことが出来る。それでいいんです」
「・・・・・・」
 ずっと前からそう決めている、そう言うカイルはしかし、未だに外の世界に対する憧れを捨てきれていないようだった。
 それでも、人を騙したくなんてないから、その思いを抑え込んで生きる。そしてだからこそカイルは、この森を訪れる人間に、不思議になるくらいの好意を寄せるのだろう。
 そんなカイルの生き方は、とてもいじらしい。そして同時に、ひどく歯痒くもあった。
 そんなカイルを、どうにかしてやろうと思うものが、今までいなかったのだろうか。ゲオルグは、何かに駆り立てられるようなざわめきを、胸の奥で感じた。
「こんな話、誰かにしたの初めてです。ゲオルグ殿が、初めてです」
 カイルは、ゲオルグに向かって、どこか嬉しそうに笑う。
「なんだか不思議な気分ですけど・・・だけどオレ、ゲオルグ殿が・・・」
「・・・・・・」
 妙に真っ直ぐな眼差しで、カイルが何かを言いかけた。ゲオルグも何も言えず見つめ返した、カイルの瞳が、しかし不意に逸らされる。
「・・・でもゲオルグ殿も、そのうちこの森から出て行っちゃうんですよね」
「・・・・・・」
 ゲオルグは、そうだ、と答えを返しづらく、視線を下げた。
 いつまでも、この森にいることは出来ない。だがゲオルグは、こんなカイルを置いて森を出ることが自分に果たして出来るのだろうか、そう思った。
 そしてその迷いを見透かしたのか、カイルがゆっくりゲオルグに近付いてくる。顔を上げたゲオルグの、すぐ目の前にカイルの顔が見えた。
「・・・ゲオルグ殿、ここなら食べるものにも困らないし、都合の悪い人たち近付けないようにすることも出来るし・・・だから」
 ゲオルグの手に、そっと、カイルの手が重ねられる。
「このまま・・・ずっと、オレとこの森で、暮らしませんか?」
「・・・っ!」
 ゲオルグは息を呑んだ。
 無理だ。そんなことは出来ない。森を出て、しなければならないことがある。
 だがゲオルグは、とっさにそう口には出来なかった。
 真っ直ぐゲオルグを見つめるカイルの瞳から、目を逸らせない。
 その青い瞳が、ゆっくり近付いてきた。そして唇に、やわらかい感触を感じる。
「・・・・・・」
 振りほどくことは簡単なはずだ。だが、ゲオルグにはそれが、ひどく難しいことのように思えた。
 結局ゲオルグは拒めず、カイルが離れるまで、その微かな接触は続く。
 少ししてカイルは、目を細めて笑ってから、立ち上がった。
「ゲオルグ殿、そろそろ行きましょう?」
「・・・・・・」
 尾をゆったりと振りながら歩き始めるカイルを、ゲオルグもゆるりと立ち上がって追う。その足取りは、それまでに比べてひどく、重く感じられた。


 それから、カイルが再び明確な言葉をゲオルグに向けることはなかった。
 だがカイルは、無言で訴えてくる。本人は無意識だろうし、もしかしたら全くの勘違いなのかもしれない。それでもゲオルグには、伝わってきた。
 ゲオルグの隣を歩き、そっと身を寄せてくる。腕に腕を絡め、ゲオルグを見上げ、微笑む。
 これからここで、こんなふうに暮らしていきましょう。
 その瞳は、そう言っているようだった。
 そして、何よりも問題だったのが。そんなカイルを、ゲオルグが拒めないことだった。
 この森で、カイルと共に暮らすことは、ゲオルグには出来ない。それははっきりしていることだった。
 それなのに、そうカイルに告げることが出来ない。その腕を、振り払えない。
 カイルの為にも、出来るだけ早く伝えなければならないのに。
「・・・・・・ゲオルグ殿?」
 足をとめたゲオルグを、カイルが不思議そうに見上げた。こんなふうに真っ直ぐ見つめられると、ゲオルグの迷いは大きくなる。
 この森の外で、ゲオルグはすべきことがある。それなのに、それを忘れて、側にいたいと、思ってしまいそうになる。
「・・・カイル、俺は」
 このままお前の側にはいられない。この森にはいられない。
 言わなければならないとわかっているのに、ゲオルグの喉は詰まって声にならなかった。
「・・・・・・」
「ゲオルグ殿・・・・・・?」
 首を傾げていたカイルが、不意に、振り返る。辺りをきょろきょろと見回し、何かを感じ取るように耳をぴくぴくと動かした。
「カイル?」
「・・・・・・誰か・・・たくさんの人が森に・・・」
「・・・!」
 ゲオルグは顔が強張るのを感じた。心当たりがある。だからこそ、こんなふうに悠長に森にいることが出来ないはずだったのだ。
「・・・ゲオルグ殿、オレ、ちょっと見てきますね」
「・・・・・・あ、あぁ」
 そのほうが便利なのか獣に姿を変え、森に消えていくカイルを、ゲオルグは見送った。
 今しかない、ゲオルグはそう思う。カイルが側にいない今のうちに、心を決め直しておかなければならない。揺るがぬはずだった決意を、再び確固たるものにしなければならない。
 そんなふうにしなければならなくなるなど、森に入る前のゲオルグは考えもしなかったが。だが、他の道を選ばずこの森に足を踏み入れたことを、後悔しているかと問われれば、ゲオルグにはしていると即答出来なかった。
 カイルと、出会わなければよかった、そう思えない自分をゲオルグは自覚せざるを得ない。
 いっそ、そう思えたなら、力ずくでカイルを引き剥がして森を出られただろう。だがもうゲオルグは、カイルの存在を忘れられなかった。忘れたくなかった。最初からいなかった存在になど、もう出来ない。
 それでも。ゲオルグは、結局カイルのことばかり考えてると、気付かないまま思いを巡らせる。
 この森を出て、すべきことがある。その為には・・・ゲオルグの取るべき道は、一つしかない。他には、ないのだ。
 ゲオルグは目を閉じ、しっかりと間を取ってから、再び開いた。
「ゲオルグ殿、帰りましたー」
 ちょうどそのとき、静かな気配と共に戻ってきたカイルが、ゲオルグの目の前に姿を見せる。
「・・・どうだった?」
「はい、なんかむさくるしいオッサンばっかりだったんで、どれだけ頑張っても入ってきたところに戻っちゃうようにしときましたー」
 あんな人たちに森をうろうろされたくありませんから、とこともなげに言うカイルだったが。
「そんなことも出来るのか」
 とゲオルグが感心したように言うと、今度は少し誇らしげに胸を張った。
「この森はオレの思うままですから!」
「・・・・・・」
 相変わらず、曇りのないカイルの笑顔。
 このカイルに、切り出せば、一体どんな表情に変わるのか。決めたはずのゲオルグの口は、やはり迷う。
「じゃ、行きましょうか!」
 ゲオルグが何も言えずにいるうち、カイルは歩き出してしまった。
 猶予をもらえたような気がして、ゲオルグはどこかほっとしてしまう。そんな、どこか気弱な感情など、これまでのゲオルグには無縁だった。それだけでなく、カイルに向ける感情自体、ゲオルグにとっては初めてのものだったのだ。
 こんなふうに、側にいて心地よいと思ったり、いつでも考えてしまったり。そんな感情を誰かに覚えるなど、初めてのことだった。
 それから、どこか浮世離れしたこの光景。緑だらけの木々に紛れて果実や花が赤く黄色く色づいている深い森。そしてその中を、耳と尻尾を揺らしながら跳ねるように歩く半妖の青年。
 ちょっと前までと全く変わってしまった状況、自分の感情。まるでどこか別の世界にでも迷い込んでしまった気にすらなる。
 だが、紛れもない現実だと、ゲオルグにはちゃんとわかっていた。今自分がこの森にいることも、カイルと共にいることも、カイルの存在も、そしてカイルに向ける感情も。
「・・・・・・・・・」
 歩き出さないゲオルグを、カイルが振り返る。じっと見つめ、不思議そうに首を傾げる。
 その青い瞳も、金の髪も、最初は慣れなかった獣の耳や尻尾も、声も表情も。ゲオルグの目を、心を捉えて離さなかった。
「・・・ゲオルグ殿ー?」
 様子を窺おうと、カイルが近付いてくる。すぐ目の前に来られ、ゲオルグの手は自然と伸びた。初めてゲオルグから、触れる。
 髪はさらさら指通りがよく、耳はふわふわと毛並みよく、頬はすべすべなめらかで・・・そして唇は、ふわりとやわらかかった。
「・・・・・・ゲオルグ殿・・・」
 カイルは少し驚いたようだが、それ以上に嬉しそうに、ゲオルグに腕を伸ばし返す。
「カイル・・・!」
 ゲオルグは抑え難い欲求に従って、再びカイルの唇を奪った。
 湧き上がり、そしてゲオルグを支配する感情、それは愛しさだ。カイルに触れたい、離したくない、そんな思いをゲオルグはとめることが出来なくなった。
 力任せにその体を引き寄せ、抱きしめる。足が縺れ共に倒れ込んでも、ゲオルグからも、そしてカイルからも離れようとはしなかった。
 欲求は募るばかりで、とどまる気配はない。
 カイルの肌が次第に赤く染まり、ゲオルグの胸は歓喜に震えた。


 はぁ、と息をもらしながら、カイルはゲオルグに寄り掛かる。馴染んだ体温は、ただただ心地よかった。
「・・・ゲオルグ殿ー」
 熱の名残を残した声で名を呼んで、カイルはゲオルグを見上げる。
「オレ・・・ゲオルグ殿が、好きです」
 視線を合わせ、カイルは初めて、はっきりとした言葉で伝えた。同時に、ふわりと微笑む。
 ゲオルグはそんなカイルの肩を思わず抱いた。それから、そのまま胸元に引き寄せる。カイルの顔を見てしまえば、告げられない気がした。
「・・・カイル・・・俺は」
 何も言わず、ずっとこうしていたい。その思いを抑えて、ゲオルグは重い口を開いた。決意を、自らにも知らしめるよう、ゆっくりはっきりと。
「・・・お前と、ここで暮らすことは・・・出来ない」



To be continued ...

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目指すは勿論ハッピーエンドですよ!
ゲオルグの事情とか、ちっとも触れられなかったですが、その辺も後編で。