光射す世界



 人を襲い、血を吸い、ときに眷族にすることもあるが主には殺す、吸血鬼。人に害なすその存在に、人が対抗する為の組織、そこに属する人間を吸血鬼ハンターと呼ぶ。
 ゲオルグ・プライムも、その吸血鬼ハンターの一人だった。
 そしてゲオルグは、この日、ある村に足を踏み入れた。三方を山に囲まれた、豊かではないが貧しくもない、のどかな農村。その村から、吸血鬼が現れたので退治して欲しい、との依頼が届いた。そして、ちょうど一番この村の近くにいたゲオルグが、派遣されたのだ。
 村に入ると、ゲオルグの纏う異質な空気に気付いたのか、村人がそわそわと反応し始める。そもそもおそらくこの村は、余所者が訪れることが少ないのだろう。
 ゲオルグは、てっとり早く、近くにいた村人に尋ねた。
「要請を受けて派遣された、吸血鬼ハンターだ。この村に吸血鬼が出たそうだな?」
「・・・・・・は、はあ・・・そ、そうなのですが・・・」
「・・・・・・」
 ゲオルグは、妙だなと思った。依頼しておきながら、吸血鬼ハンターのゲオルグを、村人たちがあまり歓迎していないように思えるのだ。普通ならば、これで吸血鬼の脅威を退けられると、安堵してしかるべきだろう。それなのに、村人はどこか落ち着かない様子に見える。
 だがゲオルグは、この村は吸血鬼ハンターを迎えることも今までなく、初めての事態に緊張してるのだろうと納得しておいた。
「吸血鬼は、どこに?」
「・・・村の・・・奥の教会に・・・」
 夫婦のうち夫のほうが、歯切れ悪く、教えることを躊躇うように言う。その視線を追えば、村の中心を通る大きな道を真っ直ぐ行った、その突き当りに教会が見えた。教会は村の中心にある場合と、村の外れにある場合の、大きく二通りに分かれるが、この村は後者のようだ。
「・・・俺が来たからには、もう心配はいらん」
「・・・・・・・・・」
 ゲオルグが力強く言ってみても、村人のどこか曇った表情は変わらない。それでもゲオルグは、自分の任務を果たすだけだと、教会へ向けて足を踏み出した。
 その背に、女の、思わず口を衝いて出たといったかんじの言葉が届く。
「・・・あの、カイルさんは・・・・・・」
 ゲオルグは思わず振り向いたが、夫が女の肩に手を置いてただ首を振り、女も言葉を継がず俯いてしまった。気にはなるが、ゲオルグは再び歩みを再開した。
 カイルとは、吸血鬼の名だろうか、などと考えながら教会に向けて歩く。そんなゲオルグに向けられる村人たちの視線は、みな一様に、何か言いたげだった。


 その教会は、建物自体は新しい。だが、明らかな破壊の跡が見えた。それは人の仕業ではない、吸血鬼の襲撃を受けたのだろう。
 昔と違って、今の吸血鬼は、聖なるものも十字架の類もおそれない。そして吸血鬼は、教会を襲ったりすることを好む。神を冒涜する、という行為が彼らのお気に召すのだろうか。ゲオルグには正確なところはわからないが、知りたいとも思わない。ただその行為を、許しがたく思うだけだ。
 ゲオルグは、昼間だというのに薄暗い教会に踏み入った。穴の空いた天井から僅かに光が差し込み、塵や埃が白く光る。すでに瓦礫と化した、元は座席や教壇だったのだろうものたちの間を通って、ゲオルグは礼拝堂を抜けた。
 微かな気配を辿って、奥の部屋に向かう。礼拝堂とは違い、質素な木の扉。おそらく神父の部屋なのだろう。
 軋んだ音を立てて、扉が開いた。窓を閉ざしているのだろう、礼拝堂よりもさらに暗い室内は、やはり雑然としている。その部屋の奥に、人の気配。いや、人ではなく吸血鬼だ。
 向こうもゲオルグの気配に気付いたのだろう、ゆっくりと立ち上がった。とたんに、ゲオルグの目に光が届く。
 壁の隙間から僅かに差し込む光を受けて、輝いたのはその男の髪だった。長く伸びた金の髪が、暗闇に負けず、むしろ光を添える。
 ゲオルグは男に数歩近付いた。ようやく、闇に慣れてきた目が、その男の全身を捉える。
 長い金髪に、青い瞳。暗いからか際立って見える白い肌を、典型的な神父服に包んでいる。その出で立ちは、教会という場所にも相応しく、神聖なものに見える。
 だが、その顔つきだけが、その姿に相応しくなかった。そして、吸血鬼にはこれ以上なく相応しい。
 目はぎらぎらと異様な輝きを宿し、少し血色の悪い顔はやつれている。幾人もの吸血鬼と対峙してきたゲオルグにはわかった。それは、血に飢えた、まさにそんな顔つきだ。よっぽど腹を空かしているのだろう、背後の壁に凭れて、やっと立っていられているように見える。
 それでもなお、その青年の美貌は、少しも損なわれていなかったが。逆に、その荒んだ雰囲気が、凄みのある、そしてどこか頽廃的な美しさを与えているように思える。
 元は人間なのだろう、そうゲオルグは思った。いかにも、吸血鬼が好みそうな顔をしている。だからおそらく、それ故に襲われ、そして吸血鬼にされたのだろう。
「・・・・・・・・・お前が、カイルか?」
 ゲオルグが静かに問うと、青年は乱れた髪の隙間で、微かに目を見開く。頷きはしなかったが、それが正しいのだろうと、ゲオルグは読み取った。
 村人はこのカイルという名の神父を慕っていたのだろう。その神父が、吸血鬼になった。だから村人たちは、吸血鬼ハンターを呼びながらも、その行為に罪悪感を覚えていたのだろう。
 だがゲオルグは、相手が神父であろうが躊躇はしない。人に害なす吸血鬼ならば。
「・・・・・・吸血鬼、だな?」
 今度はその青年、カイルは小さく頷いた。ゲオルグを射抜くような眼差しで見つめたまま。
 吸血鬼にされて、そして何故腹を空かしたままこの教会にいるのか、ゲオルグにはわからない。が、村人が躊躇しながらも依頼してきたということは、村人はこの吸血鬼に脅威を感じているのだろう。まだ実害はなくとも。
 ならばゲオルグのやることは決まっていた。退治、するしかない。
 自分をじっと見据えている青年カイルを、ゲオルグも見返しながら間合いを計った。吸血鬼の持つ能力は様々で、元人間だからといって油断は出来ない。
 それに対して、ゲオルグの退治法は、至ってシンプルだった。特に変わった力も方法も用いない。刀で殺す、それだけだ。
 刀に手を掛け、いつでも抜刀出来るようにする。そこでゲオルグは、ふと眉をしかめた。
 目の前の青年には、殺気がないように感じられたのだ。その瞳には、どこか切実そうな願望を宿しているように見える。それでも、ゲオルグを害そうとする気配が、感じられない気がするのだ。吸血鬼と吸血鬼ハンターが見合った状況で、普通そんなことはあり得ない。
 ゲオルグはゆっくりとカイルに近付いていった。
「・・・・・・どうした、血に飢えているようだが」
 語り掛けながら、ゲオルグは左手を自分の首筋に伸ばす。そして、服を引っ張り自らの首を晒した。
「お前が狙うところは、ここだろう・・・?」
「・・・・・・っ!!」
 カイルが息を呑むのが伝わる。自分の首筋に、痛いほどの視線を感じた。
 村人の様子からも、この青年は吸血鬼になってからまだ人を襲って血を啜ったことはない。今の段階では、ただ腹を減らし飢えているだけの吸血鬼に過ぎない。
 吸血鬼である、という事実だけで以て彼らを駆逐する、という考え方をゲオルグはしていなかった。人を襲い血を吸って初めて、彼らの罪は確定する。ゲオルグはそう考えていた。つまり、目の前の青年は、まだその条件を満たしていないのだ。
 産まれついての吸血鬼は、吸血行為に勿論躊躇いを感じない。だが、元人間の吸血鬼はどうなのだろうか。吸血鬼が人間を仲間にすることは、めったにない。ゲオルグが元人間の吸血鬼と対峙したのは、これが初めてだった。
 ゲオルグは、見極めたかったのだ。もし血を求め襲い掛かってくるなら、遠慮なく切り伏せることが出来る。
「・・・どうした?」
 煽るように首筋を晒し続けるゲオルグを、カイルはじっと見つめている。その目には、確かに吸血への衝動が映っている。それでもカイルは、壁に凭れたまま、動かなかった。
 その様子を、同じように動かず見つめるゲオルグに、カイルが初めて声を聞かせる。
「・・・・・・あんた、吸血鬼ハンターだろ?」
 その声は、余程喉が渇いているのだろう、掠れていた。元は綺麗な澄んだ声だったと想像させるだけに、哀れですらある。
「オレは、見ての通り、吸血鬼だ。そんなふうに、ぼさっとしていると・・・食うぞ?」
 挑むような口調で吐いた言葉は、掠れているからか、どこか切実な何かを感じさせる。
 この吸血鬼は、ゲオルグから血を吸いたがっている。それは確かだ。それでも、何故か、動こうとしない。その理由を、ゲオルグは知りたかった。
「・・・・・・だったら、食うか?」
「・・・・・・は?」
 あと5歩くらいの距離まで近付きながら言ったゲオルグを、カイルは目を見張って見返す。
「・・・あんた、バカか? そんなの、どう考えても、罠だろう」
「罠かどうか、試してみればいい」
 ゲオルグは刀から離した手を、広げて見せた。眉をしかめて、カイルはゲオルグを見遣る。疑い、迷い、考えているのだろう。
 それからカイルは、ゆっくりと動いた。壁を離れて、ゲオルグの方へ踏み出す。そのおぼつかない足取りは、青年がかなり腹を減らしているのだろうと想像させた。
 足を引き摺るように、少しの距離でも息を乱し、やっとゲオルグの目前までやってくる。
 そしてカイルは、ゲオルグを押し倒した。いや、すでにその力もないようで、それはゲオルグを巻き込んで倒れ込んだ、と言ったほうが正確かもしれない。ゲオルグに覆いかぶさってきた体は、痩せていた。
 カイルはしばらく、倒れ込んだ衝撃をやり過ごす為かじっとしていたが、やがてゆっくりと体を起こす。顔を覗き込まれれば、絹糸のような金の髪がゲオルグの顔に降り掛かってきた。
 青い瞳でゲオルグを量るように見つめてから、首筋へと顔を移動させる。かさついた唇に続いて、硬い歯の感触。ゲオルグはそっと刀に手を伸ばしながら、自分の首筋に牙が差し込まれる瞬間を待った。
 が、いつまで待っても、そのときが訪れない。ゲオルグの首筋に牙を押し付けたまま、カイルは動きをとめてしまった。ただ、ゲオルグの両肩を掴むカイルの手には、痛いほどの力が篭っている。僅かに、震えている。
「・・・・・・どうした?」
「・・・・・・っ!!」
 しばらくは様子を見ていたゲオルグが、痺れを切らして問い掛けた、それと同時だった。弾かれたように、カイルがゲオルグの上から飛び退く。といっても、もう立つ力はないようで、尻をついて這うようにゲオルグから離れていった。壁に背をつき、喉を押さえ、酷くつらそうだ。
「・・・・・・な、何、考えてるんだ? おとなしく、血を吸われる、つもりか?」
 それでもカイルは、絞り出すようにゲオルグに問う。ゲオルグは上体を起こし、同じ高さでカイルと視線を合わせた。
「お前こそ、何を考えている? 何故、血を吸わなかった?」
「・・・あんたこそ、なんで、オレを殺さない?」
「・・・・・・・・・」
 この期に及んで、目の前の青年には、やはりゲオルグに対する殺気が感じられない。ゲオルグは半ば確信した。
「・・・お前、俺に自分を・・・殺させるつもりだろう?」
「・・・・・・!!」
 はっとしたように、カイルは目を見開く。それから、視線を伏せた。やはりそうだったのか、ゲオルグは思う。
 煽るような態度も言葉も全て、ゲオルグに憎むべき吸血鬼として倒される為のものだったのだろう。ゲオルグの首筋に食い付いたのが、演技かそれとも本能だったのか、それは定かではないが。
「何故、そんなことを?」
「・・・・・・あんたには、関係ない」
 カイルは視線を落としたまま、今にも掠れて消えそうな声で、切れ切れに言った。
「あんたは、吸血鬼ハンター、だろう? だったら、吸血鬼のオレを、殺せばいい。理由なんか、いらないだろう」
「・・・・・・・・・」
 確かに、吸血鬼という存在であることが、そのまま殺され得る理由にはなる。が、ゲオルグはそんなふうには考えたくなかった。
「・・・それは、出来ん」
「・・・・・・な、んで・・・?」
 ゲオルグがはっきり言うと、カイルは視線を上げる。不思議そうなその表情は、さっきまでの睨み付けるような険のあるものとは変わって、あどけなくも見えた。
「お前は、元は人間だろう? 自分の意志で吸血鬼になったわけでは、ないんだろう? ならば、退治せんでいい方法があるなら、まずはそれを探すべきだ」
「・・・・・・」
 カイルはゲオルグを見つめる。それから、ゆるゆると首を振った。
「・・・そんな方法、あるわけない」
 相変わらず喋るのすらつらそうに、それでも言葉を絞り出す。
「オレの意志に関わらず、オレは吸血鬼だから・・・血を、吸いたい。そう思ってしまう。とめられない」
 カイルは、言外に、血を吸いたくはないのだと、訴えた。それならば、さっきの行動にも説明が付く。飢餓に突き動かされ、ゲオルグに飛び付いて、それでも自分を抑えたのだろう。
「だが、さっきはちゃんととめただろう」
「・・・・・・・・・」
 しかしカイルは、ふるふると首を横に振った。それから、両手をついて這うようにしながら、ゲオルグにゆっくり近付いてくる。ゲオルグが座り込んだまま待っていると、ようやく辿りついたカイルは、縋るようにゲオルグの肩に手を掛けた。
「・・・・・・お願い、します」
 さっきまでの態度とは打って変わって、乞うように、ゲオルグを見上げて言う。
「オレのこと・・・殺して下さい」
「・・・・・・・・・」
 すぐに答えを返せないゲオルグに、カイルは訴えるように続けた。
「オレ、元々は人間で・・・ちょっと前に、吸血鬼に、されたんですけど・・・」
 さっきまでとは、言葉遣いも変わっている。おそらく、こちらが本当の彼なのだろう。
「オレを、吸血鬼にした男は、気付いたらいなくなってて、どうしてこんなことになったのか、自分がどうなったのかも、わからなくて・・・ただ、わかるのは、自分が血を、欲しがっていることだけで・・・でも、オレは」
 しばしば顔を引き攣らせ、声を詰まらせながら、つらそうにそれでもカイルは続ける。ゲオルグに聞いて欲しいと、伝えたいことがあると。だからゲオルグも、とめられずただ聞いた。
「オレは、血なんて、吸いたくない。人を襲ってまで、生きたくないんです。でも、心配して様子を見に来てくれた、村の人たちを、見てるとオレは、自分を抑えるのが大変で、血を吸いたくて堪らなくって・・・どんどん、我慢出来なくなっていって・・・だから、頼んだんです。村の人に、吸血鬼ハンター、呼んでくれって」
「・・・・・・そうか、お前が呼んだのか」
 ゲオルグは、村人たちの不自然な様子に、ようやく合点が行った。彼らは、神父として慕っていたカイルを退治してもらう為に、ゲオルグを呼んだことに対して、罪悪感を感じていると思っていた。だが、そうではなかったのだ。
 カイルに頼まれて吸血鬼ハンターを呼んだ、それでも、カイルを殺して欲しいなどと、誰もが思えなかったのだろう。ゲオルグを見送る彼らの視線は、出来るなら殺さないでやってくれ、という切なる願いだったのだろう。
 だがこの青年は、殺してくれと、ただそれだけを願っている。
「吸血鬼ハンターなら、オレを殺してくれるって、思って。だから・・・オレを、殺して下さい」
「・・・・・・しかし」
 ゲオルグは勿論、それをすぐさま受け入れることは出来なかった。それでもカイルは、ゲオルグを至近距離で見つめ、息も絶え絶えに、訴えかける。
「もう、自分を抑えられそうにないんです。今だって、あなたの血が、吸いたくて仕方ない。でも、吸いたくないんです。おなかが空いて、喉が焼け付くようで、苦しい。生きてるのがつらい。人の血を吸ってまで、生きたくない。だから、殺して下さい・・・!」
「・・・・・・・・・」
 いつの間にか、カイルの目からは、涙が溢れていた。吸血鬼にされた哀れな青年は、それでも血が吸いたくないと、泣いて乞うている。殺してくれ、と。
 なんて残酷な話だろう。殺してやるのが、吸血鬼ハンターとしての義務かもしれない、優しさかもしれない。
 だがゲオルグは、正直に言った。
「・・・それは、俺には出来ん」
「・・・・・・なんで・・・ですか?」
「お前は、人を殺したくないと、思っているんだろう? そんな奴を、殺せん」
 小さく首を振ったゲオルグに、カイルもゆるゆると首を振って返す。
「だめです、殺して下さい。オレ、自分で死のうと思った。でも、死にかけてこれ以上飢えているときに、もし人でも来たら・・・オレは、そのときこそ、自分を抑えられない。その人の血を、吸い尽してしまう。そんなの嫌だ。だから、自分で死ぬことも出来ない。だから、殺して下さい。お願い・・・殺して」
 苦しそうに、カイルはゲオルグに訴え掛けた。
 その様子を見れば見るほど、ゲオルグからカイルを殺そうという気が失せていく。ハンターの中には、吸血鬼を問答無用で退治すべきだと主張するものもいる。だがゲオルグは、そうは思わなかった。
 この青年は、人を殺したくない、だから自らを殺してくれ、とそう言っている。
 とめどなく流れ続けるかと思われた涙は、しかしもうとっくにとまってしまっていた。涙すら、枯れ果てたのだろう。
 村人が吸血鬼ハンターに依頼をした期間から計算するなら、この青年が吸血鬼にされてから優に2週間は経っている。その間、血の一滴も口にせず、ただ飢えを抱え。今だって、ゲオルグの血を吸いたくて、気が狂いそうだろうに、それでも自分を必死で抑えている。
 こんな青年を、殺せるだろうか。こんな、純粋で、人間よりもずっと、人間らしい。
「・・・わかった」
 ゲオルグは静かに言った。カイルは目を見開き、それからその瞳を眇める。
「・・・・・・お願いします」
 泣き出しそうにも見えるその表情は、カイルが初めてゲオルグに見せた、笑顔だった。とても歪な、微笑み。
 自然と、ゲオルグの手はカイルに伸びていた。乱れた髪を、痩せこけた頬を、乾いた唇を、涙の跡を、指でなぞる。
 ゲオルグは、思った。この青年は、なんて美しいのだろう。
「・・・・・・カイル」
 ゲオルグからの断罪を待つように、目を閉じたカイルに、ゲオルグはゆっくりと自らの結論を告げた。
「・・・俺の血を、吸え」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
 しばらくしてからようやく、カイルが目を開いて、ゲオルグを見つめる。その瞳には困惑が浮かんでいた。
 それに構わず、ゲオルグはカイルを引き寄せて、自らの首筋に押し付ける。
「な、何を・・・やめて下さい・・・!」
 カイルは逃れようと身をよじるが、ゲオルグが少し腕に力を込めただけで、衰えたその体は簡単に動きをとめてしまった。ゲオルグの首筋で、カイルが荒い呼吸の合間に喉を鳴らす。限界まで追い詰められて、それでも吸血衝動を必死に抑え付け続けるカイルに、ゲオルグは説くように言葉を重ねた。
「要は、定期的に血を摂取すればいいんだろう? だったら、俺の血を摂ればいい。死ぬ必要など、ない」
「・・・・・・・・・」
「抵抗はあるかもしれんが、人が生きる為に肉や魚を食うのと同じだと、開き直ればいい」
「・・・・・・でも・・・でも・・・!」
 可能な限り首を振って抵抗するカイルの、その顔をゲオルグは再度覗き込んだ。
「もし、お前が人の心を忘れ、血に狂うようなことがあれば、そのときは責任持って俺がお前を殺す。だから、それまで・・・生きればいい」
「・・・・・・・・・っ!」
 ゲオルグを見つめるカイルの瞳から、もう一度、一筋だけ、涙が流れる。
 カイルだって、本当は死にたくなどなかったのだろう。突然吸血鬼にされ、人の血を吸ってまで生きたくはないから死を決意しながらも、それでも本当は生きたかったのだろう。
「・・・・・・いい・・・んですか・・・?」
 小さな声で、おそるおそるカイルがゲオルグに問う。ゲオルグは返事の代わりに、再びカイルを自らの首筋へと引き寄せた。
「・・・・・・・・・・」
 人の血を吸って命を繋ぐこと、それは同時に、人ではなくなるということ。純粋な吸血鬼としての本能、ずっと拒み続けてきた吸血という行為に及ぶことに対する躊躇、そしてその後自分がどうなるのかという恐怖が、カイルの中でせめぎ合っているのだろう。
 それを少しでも和らげ勇気付けてやれないだろうかと、ゲオルグはカイルの頭を背を撫でた。何度も、そうしてもいいのだと、そうして欲しいのだと、教えるように。
 やがて、カイルの手が力なく、それでもゲオルグの体に縋るように回った。それと同時に、ゲオルグの首筋に触れた鋭い牙が、ゆっくりと埋め込まれてくる。
「・・・・・・っ」
 つい身動ぎしそうになったが、カイルの妨げになってはならないと、ゲオルグはそれを抑え込んだ。
 違和感はあるが、予想していたような痛みはない。ただ、首筋から確実に生気を奪い取られている感覚があった。貧血にも似た、虚脱感。いや、血を抜かれているのだから、まさしくそれだろう。
 まさか吸血鬼に、自ら血を吸わせることになろうとは、ゲオルグは思ってもいなかった。それでも、ゲオルグには躊躇いも後悔もなかった。
 ゲオルグの血、一滴一滴が、カイルの命となるのだ。初めて人に牙を突き立てたカイルは、たどたどしく喉を鳴らす。ゲオルグはただ、カイルにとって自分の血が、少しでも甘く感じられればいいと思った。吸血に対する罪悪感が、少しでも薄らげばいいと。
 腹を空かした吸血鬼は、欲求のままに無心に血を吸っているように見える。
 今は一先ず何も考えずに、そのほうがいいだろうと思いながら、ゲオルグはしかしそろそろ危機感を覚えた。結構な量を、すでに吸われてしまっている。これ以上、となると体力に自信があるゲオルグでもさすがにきつい。
 それをどうカイルに伝えよう、とゲオルグが頭を悩ませようとした、それより一瞬早かった。カイルが、ゲオルグの首筋から口を離す。体もゲオルグから離しながら、はぁと息を吐きつつ、ゲオルグをそおっと見上げた。
「・・・・・・あの、すみません」
 口元を手で隠し、恥じるようにカイルは詫びる。やはり、まだ加減がわからず、吸い過ぎてしまったのではないかと案じているのだろう。それから、血を吸わせてもらったこと自体に対する、負い目。
「いや、もういいのか?」
 ゲオルグは努めて、疲労を感じさせない軽い口調で答えた。人を襲い無理やり血を吸うことは、許されないことだと思う。だが、これは合意の上での行為だったのだ。カイルはもう、血を吸わなければ生きていけない。だからゲオルグが、それを提供しただけであって、食事をおごったのと変わらない。すぐには無理でも、そんなふうに考えて欲しかった。
「少しくらいなら、おかわりもきくぞ?」
 ゲオルグが敢えて茶化すように言うと、カイルは少し気を取り直したように、表情をやや和らげる。
「・・・いえ、もう・・・充分です」
 おそらく、まだ満腹には程遠いのだろう。だが確かに、吸う前と比べて、カイルは明らかに生気を取り戻していた。
 色を失っていた頬には赤みが差し、吸血衝動を抱えどこか昏かった瞳は明るく、そして穏やかな青色に輝いている。声も、元の澄んだものに近付き、掠れず澱みもない。
「・・・あの、どうして・・・?」
 その声が、躊躇いがちにゲオルグに問い掛けた。
 何故、吸血鬼ハンターのゲオルグが、吸血鬼のカイルを殺さず、それどころか血を与えたのだろうと、当然の疑問を抱いたのだろう。
「・・・・・・」
 だがゲオルグ自身、その疑問に対してはっきりとした答えを返せなかった。どうして、なんてゲオルグにもよくわからないのだ。
「・・・何故かは、はっきりとは言えん。俺にもよくわからんが・・・」
「・・・・・・」
「お前を死なせることは出来ない、そう思った。俺は今まで、多くの吸血鬼を相手にしてきた。だからこそ、わかる。お前は、人を襲い苦しめ殺める吸血鬼とは、違う。俺は人を吸血鬼から守る為にある。ならばお前も、吸血鬼の被害者であり、俺の守るべき存在だ」
 言いながらゲオルグは、しかし理由はそれだけではないと思った。そんな理屈ではなかったのだ。この青年を、死なせたくないと思ったのは。
 こんなふうに誰かを死なせたくないと、自らの命を削ってでも救いたいと思ったことは、初めてだった。だがその正確な理由を、ゲオルグにはまだ説明出来そうにない。
 だから、ゲオルグはそれ以上は言わず、ゆっくりと立ち上がった。
「カイル、そろそろ行こう」
「・・・・・・は、はい・・・」
 ゲオルグが手を差し伸べると、僅かに逡巡しながらも、カイルがその手を取る。カイルの躊躇いを打ち消すように、ゲオルグはそのまま手を引いて歩き始めた。
「・・・・・・あの・・・」
 少しおぼつかない足取りで従いながら、カイルが小さな声をもらす。
「・・・・・・本当に・・・いいんですか?」
 カイルの不安も尤もだろう。人が吸血鬼を側に置いて血を分け与えるなど、ゲオルグも聞いたこともない。ゲオルグとて不安はある。だがゲオルグは、そうすること自体に対しては、すでに躊躇いを感じていなかった。
「あぁ、構わん」
 はっきりと答えれば、カイルはまた小さな声で問い掛ける。
「でも・・・迷惑じゃ・・・ないですか?」
「まあ、それは考えようだがな」
 ゲオルグはカイルを振り返り、笑ってみせた。気に掛かることがあるのなら、萎縮して溜め込むより、気軽に聞いて欲しい。
「何、食費がかからんから、逆に安上がりかもしれん」
「・・・・・・あ、あの、じゃあ・・・」
「今度はなんだ?」
 足をとめて待つゲオルグに、カイルはさっきよりは大きな声を届ける。
「・・・名前、聞いてもいいですか?」
「・・・・・・・・・」
 ゲオルグは、思わず目を丸くした。それから、ははと声に出して笑う。
「そういえば、まだ名乗っとらんかったな」
 こっちは散々カイルと呼んでおいて、と思うとゲオルグは妙に可笑しかった。陽気に笑うゲオルグに、つられてかカイルも小さく笑う。
 それは、ゲオルグが見たカイルの二度目の、そして屈託のない最初の、笑顔だった。
 人として死にたいと乞うカイルの姿を、ゲオルグは美しいと思った。だが、今のカイルのほうがずっと魅力的だと、ゲオルグは思う。この青年はきっと、吸血鬼になってなお、こんな暗がりにいるよりもずっと太陽の元にいるのが相応しい。
「俺は、ゲオルグという」
「・・・ゲオルグ殿」
「いや、ゲオルグで構わ・・・」
 噛み締めるように名を口にしたカイルに、訂正を入れようとしたゲオルグは、しかし言葉をとめた。
 カイルが、ゲオルグの肩先に額を押し当ててきたのだ。
 それ以上の接触はせず、声を少し震わせて、言う。
「・・・ありがとう、ございます」
「・・・・・・・・・」
 そんなことはない、と簡単には言えないことを、した自覚はあった。だからゲオルグは、言葉では返さず、ただカイルの背をそっと抱く。もっと凭れ掛かってくれて構わない、と。
「・・・・・・ありがとう・・・ございます」
 さっきよりもさらに湿っぽくなった声に、ゲオルグは苦笑した。
「おい、泣くなよ? 俺の予想では、ここを出るなり、村の人に取り囲まれるぞ。変な顔、見せるわけにはいかんだろ?」
「・・・・・・は、はい」
 こくこくと頷いてから、カイルは目元を拭う。それでもすぐにはとまらないようで、何度も鼻を啜るカイルを、ゲオルグは急かさず背を撫でてやった。
 おそらく今のカイルにあるのは、生きられる喜びだけではないのだろうと思う。これから吸血鬼として生きていかなければならない、不安、恐怖、悲しみ、そんなものがカイルをこれから絶えず苛むだろう。
「・・・あの・・・もう大丈夫です」
 ようやく落ち着いたようで、カイルがゆっくりと顔を上げた。
「では、行くか」
「あ、はい・・・」
 促すゲオルグに、ついてくるカイルの足取りは、やはりおぼつかない。その表情も、決して晴れやかではない。
 カイルの足を鈍らせているのは、表情を曇らせているのは、まだ万全ではない体調と、そして踏み出すことへのおそれだろう。ゲオルグよりもずっと大きな不安を、カイルは抱えているのだ。
 そしてその半分は、カイルに死を渡してやれなかった自分のせいなのかもしれないと、ゲオルグは思った。殺してやるべきだった、とは思わない。それでも自分のしたことが、絶対に間違っていないと、断言は出来なかった。
 ゲオルグには、はっきりと言えることが何もない。ただ、目の前の青年を死なせることは出来ない、その思い以外には。
 ゲオルグは、先のことを悩むのは一先ずやめにした。ゲオルグが迷えば、カイルはもっと迷い、悩み、苦しむ。カイルを支えられるのは、今は自分しかいないのだ。
 カイルはいつか、ゲオルグを恨むかもしれない。いつか、ゲオルグがカイルの命を絶たなければならない日が来るかもしれない。そのとき、今の選択を悔いるのかもしれない。
 たとえどんな結末が二人を待っているのだとしても、それでも、ゲオルグは思いたかった。カイルに、伝えたかった。
 不安に思うようなことは何もない。未来は、明るいのだと。




END

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なんだか、序章!!てかんじの話になりましたが。
続きの話とかは何も考えておりません…!(カイルを吸血鬼にしたやつとか、その辺もちっとも…)
ところで、神父の割にカイルが「神が…」とか一言も言わないのはどうかと、書き終わってから気付きました。
自殺しない理由なんて、それこそ宗教的理由で片付ければよかったような…