LOVE REALIZE



 アルベルトが二年ぶりに帰ってくる。
 その知らせを受けてからシーザーは、夜も眠れないほどその日を楽しみにしていた。
 兄とは考えが合わず衝突することもしばしばだった。だがそれでも、ハルモニアに留学する為に家を出るアルベルトを泣きながら見送ったほど、シーザーは兄のことが好きだった。
 しょっちゅう出した手紙にほとんど返事が返ってこなくても、その思いは少しも変わらない。
 いない間にたくさん勉強して、見違えるほど頭がよくなって、アルベルトの話にも余裕で付いていけるようになろうと頑張った。
 だから、そのときが来たら、胸を張って彼を迎えようと思っていたのだ。
 そして、その兄が帰ってきた。
 その日、今か今かと待っていたシーザーは、外から僅かに馬車の着く音が聞こえると、注意されるのも構わず走って玄関に向かった。
 ドアが開いて、使用人に続いてアルベルトが入ってくる。
「兄貴・・・っ?」
 駆け寄ろうとしたシーザーは、しかしそこで思わず足をとめた。
 兄の姿を視界に認めた途端に、心臓が大きく跳ねたのだ。
「・・・シーザーか。相変わらず、悩みのなさそうな顔で、羨ましいことだ」
 アルベルトがシーザーを見て、いつものように馬鹿にした口調を向ける。それに対してシーザーも皮肉たっぷりに言い返してやるのが、いつもの決まった行動だったのだが。
「・・・お、おう」
 何故か、何も言葉が浮かばなかった。いつもなら溢れてくる文句が、何も。
「・・・・・・?」
 刃向かってこないシーザーをアルベルトは少し訝しく思ったようだが、すぐに何事もなかったかのように屋敷の中へと入っていった。
 それと同時に、シーザーの体からふっと力が抜ける。思わずへたり込みそうになって、しかし人がいる手前それだけはなんとか回避した。
 しかし思わず呟いてしまうのはとめられない。
「・・・な、なんでだ・・・?」
 アルベルトを目の前にして、言い返すどころかろくに言葉も出なかった自分をシーザーは不思議に思う。
 文句だけじゃなく、会ったら言いたいことがたくさんあった。この二年間たくさん勉強した、だからおまえにだってもう言い負かされたりしない。この二年間家ではこんなことがあった手紙にも書いたけど、おまえのほうはどうだったクリスタルバレーはどんなところだった。
 言いたいことも聞きたいことも、たくさんあった。
 それなのに自分ときたら、「兄貴」という呼び掛け、「お、おう」というどうでもいい返事、それしか発していないのだ。
「・・・こ、このおれ様が・・・」
 シーザーはこんなはずはないと、このままじゃだめだと、再び走った。
 予想通りアルベルトは父の部屋でハルモニア留学の報告をしている。
「兄貴!」
 勢いよく部屋に入ったシーザーはアルベルトにビシッと指を突きつけた。
 が、アルベルトは振り返りもせず報告を続ける。
「おい、聞けってば!」
 その反応に苛立ったシーザーは、振り向かせようと兄の腕を引っ張った。
 するとアルベルトはゆっくりとシーザーに顔を向ける。
「・・・言いたいことがあるのなら、手短に願いたい。長旅で疲れているんだ。お前の相手をしている暇があるならさっさと体を休めたい」
 至極面倒そうにアルベルトはシーザーを見下ろして言った。
「お、おまえ・・・っ」
 その言い様に張り切って言い返してやろうと思ったシーザーは、しかしながらやっぱりその口から言葉が出てこない。
 いつもなら考えるよりも先に動く口が、全く動こうとしないのだ。
 何も言い返せずシーザーは兄を見上げた。
 二年の間に、元々そんな傾向があったアルベルトは益々大人びた顔つきになっている。髪も少し伸びて、右側など瞳が半分隠れてしまっていた。そしてその僅かに覗く相変わらず冷たい視線は、今真っ直ぐシーザーを見下ろしている。
「・・・・・・っ」
 体温が数度上昇したような気がした。
 心臓が破れるかと思った。
 腕を掴んだ手が燃え上がるかと思った。
「・・・・・・シーザー、何もないのなら、出ていけ」
 ふいにアルベルトが呆れたように、溜め息をつきながらシーザーの手を振り払った。
 シーザーの手はそのまま力なく垂れ下がる。
 そんなシーザーに、前に向き直してしまったアルベルトではなく、それまで黙って成り行きを見ていた父が声を掛けた。
「・・・シーザー、おおかた言いたいことが多すぎて言葉に詰まっているのだろう。アルベルトとはこれからいくらでも話す機会があるのだから、この場は引きなさい」
 父はシーザーに部屋を出ろと、優しい言葉で命令する。
「・・・・・・・・・」
 その言葉に従ってシーザーはふらりと足を動かした。今のシーザーには逆らってこの場にとどまる気力も余裕もなかったのだ。
 部屋を出て、シーザーは今度こそその場にへたり込んだ。
 そして火照るように熱く感じられる顔を押さえる。赤くなっているかもしれないが、兄も父もそんなことに気を払わない人で、シーザーはそのことにホッとした。
 といっても、何故こうなっているのか、シーザーには聞かれても答えられない。何故いつもならスラスラと出てくる憎まれ口が少しも浮かばないのか、わからない。
「・・・ちくしょう、なんでだよ」
 悔しそうに呟いたシーザーは、しかしその理由をすぐに知ることとなる。


 一日、二日と経っていくにつれ、さすがに普通に話せるようになった。それでも、以前と全く同じには、もう戻れなかった。
 瞬きも出来ずに、シーザーの瞳はアルベルトを捉える。
 寸分の隙もないその動作。
 声を掛けたとき、振り返って自分を捉える瞳の動き。
 シーザー、と名を呼ぶ声。溜め息すら。
 そこに存在する、全てを。
 そしてシーザーはときどき、兄に近寄ることさえ出来なくなった。
 アルベルトを目にすると、思わず足がとまる。耐え難いほどの動悸に襲われ、立っているのがやっとなほど体が震えるのだ。そして何も出来ずに、ただその姿が通り過ぎていくのを見送ってしまう。
 逆に、アルベルトが誰かと話しをしていると、無情にそれに割って入りたくなってしまうこともあった。おそらく何気ない会話だろうとわかっていても、自分ではない誰かにアルベルトが声を聞かせていると思うと、なんだかとても嫌だった。その相手が使用人でも、父親でも、誰でも。
 そしてアルベルトといると、シーザーはときに苦しくすらあった。
 ある書物について言い合っていたときなど、ふいにアルベルトとの距離がひどく近いことに気付いて、このまま息がとまるのではないかと思った。その瞬間頭が真っ白になって、完膚なきまでに言い負かされてしまったことも全く気にならなかった。
 すぐ目の前で、自分よりも濃い色彩の髪がゆらりと揺れている、形はいいが薄いせいで冷たさを感じさせる唇が動いている、論じているからかいつもより熱のこもった瞳が向けられている。そのときシーザーは自分の衝動を抑えつけることだけに必死だったのだ。そうしなければ兄に対して、何を言っていたか、何をしていたか、わからなかった。
 学問に対しても早熟だったシーザーは、この年でもうなんとなく知っている。
 恋、と呼ばれるものが何か。
 それは、誰か一人を特別に思うこと。大切だと、欲しいと、誰にも渡したくないと思うこと。一緒にいるだけで幸せになったり、少しつらかったり、嬉しかったりする、感情。
 それはまさしく、シーザーが今兄に対して抱いている感情だった。
 シーザーのアルベルトに向ける思いは、その「恋」と呼べる感情に相違ない。そうシーザーは感覚的に悟った。
「・・・・・・っは、んなわけねえだろ」
 ふともたらされた感情の正体、だがシーザーは即座に理性で否定する。
 思わず手にしていた本を放って、シーザーは疲れているせいで変なことを考えてしまったのだと、そういえば最近自分にしては睡眠時間が短いことを思い出してベッドに身を投げた。
 そしていつもならすぐに眠りに入るはずなのに、シーザーの思考は休もうとしなかった。
「・・・・・・だいたい、兄貴だぞ、兄貴」
 シーザーは思わず呟く。
 兄とは、両親を同じくする、同じ血を持つ、そんな存在。もちろん男。
 そんな相手に恋愛感情を向けることがどれだけ異常でそして愚かなことか、シーザーだって知っている。
「あり得ねえだろ。しかも、あいつは、あんな人間だぞ?」
 シーザーは独り言をさらに続ける。
 アルベルトの考えは、シーザーから見れば行き過ぎた、危険思想だ。ハルモニアから帰ってきて、それはさらに磨きが掛かっていた。性格だって冷淡で陰湿で、きっと人を人とも思っていない。
「あんな最低な人間、他に知らねえし」
 人として少し何かが欠けている、アルベルトがそんな人間だとシーザーは知っていた。
 そう、ずっと前から、知っている。
 それでも。
 それでもシーザーは、昔からアルベルトが好きだったのだ。
 アルベルトにそんなところがあっても、いやおそらく、そんな部分を持つアルベルトだからこそ、シーザーは惹かれ、そして好きだった。
 気に入らないところ嫌なところ、そんなのたくさんあっても、それでも好きだったのだ。
 そして、それは今でも、変わらない。今だって、好きか嫌いかそう問われれば、きっと好きだと即答するだろうとシーザーは思う。
 ただ、その思いが、年を経て少しだけ変わってしまったのだ。
 アルベルトは益々大人びて、シーザーも幼さを少し捨て、そして思いが形を変えた。それは、自然なことだったのかもしれない。
 シーザーはふいに、すんなり納得した。自分が、アルベルトを好きだということを。
 ああいうアルベルトだから、好きになった。彼の弟として生まれたからこその、この思いなのだと。
「・・・あいつも大概人でなしだけど、おれも人のこと言えねえな」
 シーザーは思わず苦笑した。
 そして、ガバッと起き上がると部屋を出る。
「おい、兄貴!」
 ノックもせずにドアを開けて、シーザーは中に人がいるかどうかも確かめずに言い放った。
 幸いアルベルトは窓際の椅子に掛け書物を読んでいる。ちらりとシーザーに目線を送って、しかし興味なさそうにすぐに目を読んでいる本に戻してしまった。
 その様子を見て、こんなやつを好きになるなんてと、シーザーは自分が兄に劣らず普通ではない人間だと思う。
「聞いてんのか、兄貴」
 シーザーは近付いて、強引に視線を合わせるようにその顔を覗き込んだ。
「・・・・・・何か用か?」
 追っていた文字列をシーザーの手によってさえぎられたアルベルトは、仕方なさそうにシーザーを見た。
 目が合った、それだけでシーザーの胸が高鳴ったが、自覚した今となってはその動悸すら心地よい。
 そしてシーザーは、すぐ側に見えるアルベルトの髪に、触りたいと思った。今までだって何度か触れたことはあるが、その目的も持つ意味も、そのときとは違うだろう。
 欲求に従って、シーザーはアルベルトの髪に指を通した。
「・・・痛んでんな。ちゃんと手入れしろよ」
 滑らせようとすると少し軋んで引っ掛かる。いいとはいえない梳き心地だが、それでもシーザーは嬉しかった。ずっとこうしていたとすら思う。
「・・・お前には、言われたくないな」
 アルベルトはシーザーの寝癖のせいで更に跳ねている癖っ毛をちらりと見た。それから、鬱陶しそうに頭を振ってシーザーの手を払う。
「なんだよ、減るもんじゃなし」
 シーザーはむっとして、腹いせのようにその髪を掻き回してやった。
「ははは、ボサボサだな」
 その様を笑うと、シーザーは櫛を取ってきて、自分で乱したアルベルトの髪を丁寧に梳かし始める。
「・・・・・・お前は・・・何がしたいんだ」
「いいからおとなしくしてろよ」
 心底呆れたような溜め息を落としながらも、アルベルトは言われた通りおとなしく、シーザーのするに任せている。
 それはおそらく自分で直すのが面倒だからだろうが、それでもシーザーは嬉しかった。
「・・・よし、できた!」
 梳き終わり、その髪にもう一度手を差し込むと、今度はするりと抜ける。
 その感触に満足そうに笑うシーザーを、アルベルトは呆れ返ったように見上げた。
「・・・・・・で、用件はなんだ?」
 そもそも何をしにこの部屋に来たんだと問うアルベルトに、シーザーは思わず忘れかけていたことを思い出す。
「あ、そうそう、おまえに言っときたいことがあったんだ」
 そしてシーザーはいつものようにアルベルトに指を突きつけて宣言した。
「絶対に、おれはおまえに勝ってみせるからな!」
「・・・つまり、お前は現時点では劣っていると認めるわけか。殊勝なことだな」
 嫌味ったらしく言ってアルベルトは呆れたように溜め息をつく。その反応はとてもアルベルトらしくて、シーザーは思わず愉快な気分になった。
 人を人とも思わない、情など僅かも持ち合わせていないようなアルベルト。
 だが、そんなアルベルトだが、シーザーが突っかかるとちゃんと言葉を返してくれる。溜め息まじりでも呆れきった口調でも馬鹿にするようでも、それでもちゃんと言い返してくれるのだ。
 シーザーは自分がアルベルトの世界に住むことが出来ている限られた人間だと知っている。
 今まではそれで満足だった。だが、今のシーザーには、それだけでは足りない。
「待ってろよ、兄貴」
 いつか同じ意味で好きにならせてみせる。その為には、アルベルトに認められなければならないのだ。自分よりも下の存在だと思われていてはならない。
 それはこの世で一番難しいことのようにも思えた。アルベルトの力を、他の誰よりもシーザーは知っている。
 だがシーザーは、諦めたくなかった。
「いつか必ず、おまえを越えてやるからな!」
 アルベルトをビシッと指差して、シーザーは、今はまだあるとはいえない自信を、それでも込めて言い放った。
 言われたアルベルトは、一瞬片眉を上げ、しかしいつもの冷たい視線をシーザーに向ける。
「・・・それは、せいぜい励むんだな。無駄な努力だろうが」
「言わせといてやるよ。そんとき吠え面をかくのはおまえのほうだからな!」
 憎まれ口に憎まれ口で返して、シーザーはもう一度手を伸ばした。
 指に触れる赤毛の感触は、やはりシーザーの気持ちを高揚させる。なんだって出来る、そんな気にさえなる。
 シーザーは実感した。やはり自分は、この男が好きなのだ、と。
 異常でも間違ってても愚かでも、構わない。それでも好きだという思いはもう消えそうもないのだ。
 アルベルトは不審そうに見上げたのち、そんなシーザーを構うのが面倒になったのか、何事もないかのように本を読み始める。
 その、自分をいとも簡単に視界から締め出すアルベルトを見ながら、シーザーは改めて決意した。
 アルベルトのほうから目をそらせなくなる、そんな人間にきっとなってやると。
 そしてひとまず今は、また自分に視線を向けてくれるまで、この髪を触り続けてやろう。
 シーザーはそう決めた。




END

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無駄にジョージが初登場です。
というか銀バーグ家、使用人いるのかな。ライトフェロー家にも執事がいるから大丈夫か。
とかどうでもいいですが。
何故このアルベルトは何気に律儀にちゃんとシーザーに返答してあげてるんでしょうか。
そっちのほうがずっと謎ですね。