2:おデコくん



「・・・それでね、おデコくん」
「・・・・・・・・・あの」
 ご機嫌で話し続けようとする牙琉響也の言葉を、王泥喜法介は悪いがさえぎらせて頂いた。響也の声は、いつまででも聞いていたい程度には、好きだ。が、彼が貰ったファンレターの話題、ではあんまり嬉しくない。
 だから王泥喜は、結構前から気になっていたことに話題を変えられないだろうかと思ったのだ。
「ちょっと、いいですか?」
「ん、なんだい?」
 いったんノリ始めた響也の話の腰を折るのは大変なのだが、まだ今日はそこまでではないらしく、すぐに口をとめてくれた。そして先を促すように、少し首を傾げて王泥喜を見つめる。
 ソファーに隣同士、膝がくっつくくらいの距離で座って、いつもの笑顔。王泥喜は自らの緊張が原因で腕輪が僅かに反応するのを感じたが、それは無視する。
「あの、そのおデコくん、っていうの・・・そろそろやめてもらえません?」
 きりっと真面目な表情をして、王泥喜は言った。
 法廷で二度目に出会ったとき、響也は何故だか突然王泥喜をおデコくん呼ばわりし始めた。そしてそれは、恋人同士という関係になってなお、変わらず続いている。
 それはどうなんだろう・・・と王泥喜は常々思っていたのだ。名前ではなく体の一部分の名称で呼ばれるなんて、悲しいじゃないか。しかも、目立つ触覚ではなくそれほど際立っているとは自分では思えないおデコ。
 確かに他にそんなふうに自分を呼ぶ人はいないが、どうせなら別の特別のほうがいい。
「・・・嫌なのかい?」
 王泥喜のそんな思いを全く分かっていないらしい響也は、不思議そうに首をさらに傾げてみせた。
「嫌に決まってます!」
「・・・可愛いと思わないかい?」
「思いません!」
 もしかして、その呼ばれ方を喜んでいるとでも思われていたのだろうか。王泥喜はもっと早くに言うべきだったと後悔する。
「そんな呼ばれ方されても、ちっとも嬉しくないですよ」
 王泥喜がきっぱり言うと、響也はふむと考えるように手をあごにあて、それからその指で王泥喜を指した。
「でもね、おデコくん、それはお互い様だと思わないかい?」
 だからおデコくんはやめて下さい!と言いたいところだが話が進まなくなりそうなので、王泥喜はぐっとこらえて先を促した。
「・・・何がです?」
「キミだって、ぼくのことを未だに、牙琉検事、って呼ぶよね?」
「・・・・・・!!」
 法廷で思わぬ反撃を受けた、ときくらい動揺した。確かに王泥喜のほうも、最初の頃と変わらず色気も何もない呼び方をしている。響也がその矛盾を突いてこないはずがないだろう。
 だがそこは、王泥喜もそれなりに経験を積んだ弁護士。すぐに切り返した。
「でも、少なくともオレは、ちゃんと名前で呼んでますよ? おデコくん、なんて名前ですらないじゃないですか・・・!」
 どっちが酷いかは、一目瞭然。王泥喜は自らの主張を自信を持って言い放った。しかし響也も切れ者検事、簡単に黙ってはくれない。
「・・・そうかい? でも、牙琉も検事もぼく以外にもいるけど、おデコくんはこの世に一人しかいないよ?」
「・・・・・・いやいや、そんなわけないでしょう!」
 確かに牙琉と検事は響也一人ではないが、牙琉検事になればそれは響也しかいない。それに対して、おデコくんと呼べる人なんて、この世の中にどれだけいることだろう。全く説得力がない。
「・・・もしかして、牙琉検事」
 よくわからない切り返しをしてくる響也に、王泥喜は可能性を思い付いて、少しニヤリと笑いながら言ってみた。
「オレのこと、名前で呼ぶのが恥ずかしいんですか?」
 そうだという確信があるわけではない。だからこそ、王泥喜は自信ありげに言ってのけた。ハッタリ、というやつだ。
 そして、王泥喜の期待したように、響也の動揺を表して腕輪が締まる・・・なんてことは、残念ながらなかった。
「・・・・・・へえ、そうだと思ってたんだ?」
「・・・・・・」
 響也は目を細め、微笑みながら王泥喜との距離を詰めてくる。王泥喜はついうしろに逃げようとしたが、二人用のソファーの上では、逃げ場なんて限られている。
 すぐ背後の背凭れに右腕を、肘掛けに左腕を伸ばし、響也はあっさりと王泥喜を包囲してしまった。すぐ間近で王泥喜を見つめる、響也のその笑顔はいつもよりも意地が悪い。
「ぼくとしてはただ、楽しみはあとに取っておこうと思ってただけなんだけどねえ・・・」
「・・・・・・た、楽しみ・・・?」
 王泥喜の腕輪が、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる。これは間違いなく、王泥喜本人の緊張のせいだろう。間近の美貌と、これから何されるのだろうという不安、のせい。
「おデコくんがそんなに呼んで欲しいなら、仕方がないね」
 そして響也は、にこりと笑ってから、王泥喜の耳元で囁くように言った。
「・・・法介」
「・・・・・・・・・っ!!」
 さすが、日本中の女の子を熱狂させたバンドのヴォーカル、耳元で囁かれればそれだけで腰が抜けそうになるほどの美声。加えてその声で、一字ずつ区切るように名を呼ばれた日には。大抵の女・・・男も、落ちてしまうのではないか。
 王泥喜は反射的にぱっと耳を押さえた。顔が真っ赤になっている気がする。
「あれ、どうしたのかな、法介。言われた通り、名を呼んだだけなのに・・・どうしてそんなに顔が赤いのかな?」
「・・・・・・べ、別に・・・!」
 やっぱり、真っ赤になっているようだ。それでも、名を呼ばれただけで過剰に反応していると、響也には知られたくない。・・・たとえ、完璧に見透かされていようと、虚勢くらいは張りたい。
「なんでもないですよ・・・!」
 職業柄、冷静な振りをするのも上手くなってきた。王泥喜はぶんぶんと首を振ってから、敢えて響也を真っ直ぐ見返す。
「ふうん・・・」
 すると響也は、また少し意地が悪そうに、笑った。
「じゃあ次は・・・キミの番だね」
「・・・・・・・・・え?」
 とたんに嫌な予感を感じる王泥喜に、響也は要求を突き付ける。
「ぼくはちゃんとキミを名で呼んだよ? 今度は、キミがぼくを名前で呼んでくれるんだろう?」
「・・・・・・!!」
 そうきたか!と、普通に考えるなら当然の成り行きに、王泥喜はこれでもかというほど動揺した。名前で呼んで欲しいと思いながら、自分が名前で呼ぶことは考えもしていなかった王泥喜だ。
 今までずっと、牙琉検事、と一貫して呼んできた。響也のように、さらっと呼んでしまえばいいのだとわかっていても、王泥喜の口はなかなか動かない。
「・・・・・・」
「・・・どうしたのかな? 早く呼んでおくれよ」
 面白がるように、響也は王泥喜の顔を覗き込んでくる。響也はきっと、ちゃんと呼ぶまで解放してくれない。渋れば渋るほど、口にしにくくなる。
 王泥喜は意を決して、日頃の発声練習の成果を嫌でも発揮しつつ、言い放った。
「・・・き、響也・・・さん!!」
「・・・・・・・・・」
 王泥喜にしてみれば、一世一代の告白級に勇気を振り絞った。そしてこれでやっと解放されるのだとほっと胸を撫で下ろしたのだ。
 だが響也は、何故だか明らかに、不満そうに見えた。
「・・・法介、さん、は余計じゃないかい?」
「・・・・・・え・・・?」
 王泥喜としてはそれで充分のつもりだったのだが。
「・・・でも、オレのほうが年下だから・・・呼び捨ては」
 というのが理由では勿論ない。呼び捨てにするのはなんだか気恥しいからだ。
 だが一応それらしい理由で繕ってみた王泥喜を、やっぱり響也は逃がしてはくれなかった。
「随分とつれないことを言うね。ぼくとキミの仲じゃない」
「・・・・・・は、はあ・・・それは・・・」
 だらだらと冷や汗をかきながら、王泥喜は可能な限り上体をうしろに逃がそうとした。が、響也の右腕が肩に回されて、逆に引き寄せられる形になる。いつの間にか、二人掛けのソファーなのに右半分がすっかり空いてしまっていた。
「法介、どうしたんだい?」
「・・・・・・・・・・・・」
 至近距離で響也が微笑み掛けてくる。やっぱりそれだけで、王泥喜の腕輪は締まってしまった。響也の緊張に反応して、ではないところが癪だ。
 ともかく、王泥喜にはこの困った現状を打破する方法が、素直に名を呼ぶ以外で、一つしか思い付かなかった。
「・・・・・・っ!?」
 突然行動を起こした王泥喜に、当然予測していなかったらしく響也は抵抗する暇もなかったようだ。あっさりと、空いていたソファーの右半分に、背中から倒れ込む。
 驚いたように目を瞬かせてから、響也は自分を押し倒した男を見上げた。
「・・・何、してるんだい?」
「何って・・・響也さんのほうこそ、野暮ですね。オレとあなたの仲じゃないですか」
「・・・・・・流れがおかしいと思わないかい?」
「思いません!」
 勿論、思う。だから王泥喜は力いっぱい否定しておいたのだ。王泥喜が思い付いた方法、それはなんのことはない、うやむやにしてしまう、というものだった。
 僅かに困惑したような表情を浮かべる響也に、王泥喜は構わず唇を押し付ける。反射的に響也が王泥喜を押し返そうとしてくるが、体格差はこの体勢では障害にはならない。
 王泥喜は響也の体をしっかりとソファーに押しつけながら、響也の唇を数度ついばんだ。それと同時に、王泥喜の腕輪がぎゅっと締まる。それは明らかに、響也の緊張が原因だった。
 それが嬉しくて、王泥喜が思わず口元をゆるめると、響也がむっとしたように眉をしかめて王泥喜を睨む。
「・・・何笑ってるんだい、おデコくん」
「法介、でしょう?」
 完全に形勢が逆転してしまえば、王泥喜の心にも余裕が生まれる。さっきまでは恥ずかしくてとても口に出来なかった言葉が、王泥喜の口からするりと出てきた。
「ね、響也」
 さっきのお返しのように、耳元で囁くように言ってやれば、響也は困ったような表情を浮かべつつ頬を赤らめる。
「・・・・・・ずるいぞ、おデコくん」
「・・・何がですか・・・」
 さっきはそっちのほうが散々強要してたくせに、と王泥喜は呆れた。呆れると同時に、なんて可愛い反応をしてくれるんだ、とも思ったのだが。
 だが響也は、困った・・・というより若干拗ねたような顔で愚痴る。
「キミのその豹変癖は・・・卑怯だ」
「・・・・・・それは、オレのセリフですけどね」
 ちょっと前までのキザったらしい態度は一体どこへ行ったんだ、と思えど、王泥喜にとってその変化は嫌なものではない。むしろ、好ましい。とっても。
「・・・だから、何笑ってるんだよ」
「いえ、別に・・・なんでもないですよ?」
「・・・・・・・・・」
 響也は不機嫌そうに、やはり顔がどこかゆるんでいる王泥喜を睨み付けた。それから、王泥喜の下から抜け出そうとするので、王泥喜は取り敢えずそれを見守る。
 すると響也は、ソファーの右端に寄って体を少々小さくしつつ、王泥喜に向かってびしっと人差し指を突きつけて、言い放った。
「もう、いいよ。キミのことは、おデコくんとしか呼んであげない!!」
「・・・・・・・・・」
 王泥喜は頑張って我慢する。が、耐え切れず、次の瞬間には吹き出してしまった。
「・・・あ、あは・・・あははははははは!!」
「・・・・・・!!」
 響也を指差して大声で爆笑したのち、王泥喜はソファーの背凭れにしがみ付いてさらにしつこく小刻みに笑う。そんな王泥喜に、響也は益々顔を赤くして噛み付いた。
「な、なんなんだい!!」
「・・・だ、だって・・・」
 王泥喜は引き攣りそうな腹を押さえ、呼吸を宥めつつ、涙目を拭いながら笑った理由を教える。
「牙琉検事、まるで子供みたいなこと言うから・・・」
「こ、子供・・・し、失礼なやつだなキミは!」
 言ってから、響也はぷいっと顔を背けて、さらに体ごと王泥喜に背を向けてしまった。すっかり、へそを曲げてしまったようだ。
 やれやれ、と思いながら王泥喜は、そんな響也にゆっくり近付いた。そして、うしろからそっと抱き締める。頬に触れる響也の薄いプラチナブロンドの髪から、もう嗅ぎ慣れてしまった香りが漂ってきて、王泥喜の鼻腔を擽った。
「拗ねると、益々子供っぽいですよ?」
「・・・拗ねてなんか、いないよ」
「だったら、こっち向いてもらえませんか?」
 王泥喜が顔を覗き込もうとすると、響也はそっぽを向いてしまう。
 こういうところが、可愛いんだよなぁ・・・などと思ってしまう自分は、もう終わってるよなあと、王泥喜は思った。
「わかりました、もうおデコくんで構いませんよ、牙琉検事」
「・・・・・・そうだよ、大体、キミが変なこと言い出したのがそもそも悪いんだからね・・・!」
「はいはい、オレが悪かったです、済みません」
 形ばかりの謝罪をしながら、また込み上げてくる笑いを噛み殺していた王泥喜は、頭部に不意に微かな痛みを感じた。
「いてっ・・・?」
 どうやら、響也に触覚を思いっきり引っ張られたようだ。王泥喜が思わず痛む触覚の付け根を押さえると、その隙に緩んだ拘束から抜け出した響也が、振り向きざま王泥喜の体をぐいっと押してくる。
 そして王泥喜は、さっき自分がしたように、あっという間にソファーに押し倒されてしまった。
「・・・ちょっと、調子に乗り過ぎじゃないかい? おデコくん」
「・・・・・・はあ、そのようで・・・」
 取り敢えず響也の言い分を控えめに肯定してみながら、王泥喜が見上げると、響也は表情はまだ不機嫌そうながら、さっきまでとはうって変わって楽しそうに瞳を輝かせている。もう、拗ねる時間は終わったようだ。
 この気分屋で気まぐれな男に、王泥喜はなかなかついていけない部分がある。響也に言えば、それはこっちのセリフだよ、と返ってきそうだが。
「さあて・・・どんなお仕置きをして欲しいんだい? おデコくん」
「・・・それは・・・」
 多少怯みつつ、王泥喜はせっかく聞いてくれたことだし、答えてみた。
「・・・口を塞ぐ、とかどうでしょう?」
「・・・・・・・・・」
 響也は、数度目を瞬かせてから、笑う。
「あっはは、なるほど、それはいいアイデアかもしれないね」
 どうやら、王泥喜の提案がお気に召したらしい。言葉通りに、響也は王泥喜の口を、自らの唇で以て塞いだ。
 それから一旦離れるものの、再度降りてきた響也の唇は、王泥喜の唇、それからおデコなんかにも、食指を伸ばす。形勢逆転出来たせいか、響也は随分楽しそうだ。
 そんな響也を見るのは嫌いではないし、また拗ねられても困る。だから、しばらくは響也の好きにさせておこう、王泥喜はそう思った。




 END
・・・バカじゃないですか? この二人・・・(いろいろと・・・)

ちなみに最初は、
「やっぱり、普段はおデコくんと呼ばせてもらうよ。イケナイ気分になりそうだ」
「・・・・・・・そうして下さい」
って締めに持っていこうと思ってたんですが。(響也優位なかんじで)
途中から軌道修正が不可能になって、結局あんなことになりました・・・。