#Excuse
楽太が三時間目に使う教科書を机から出すと、同時に何かがひらりと落ちた。この教科書はいつも置いて帰っているものだから、上に入っていたとしても下に入っていたとしても楽太が今日学校にくる前に机の中に入っていたことになる。
楽太はそれを拾ってなんなのか確かめた。白い簡素な封筒で差出人はないが、宛名には綺麗な文字で「石井君へ」と書かれている。そして、封代わりのシールは可愛いハート型だ。
「こ、これってもしかして・・・」
楽太の予想は多分正しく、それはラブレターと呼ばれるものであろう。そんなものを貰ったことが今まで全くなかった楽太は、幾分ドキドキしながら封を開けた。ちなみに、もう三時間目は始まっているのだが、楽太は席がうしろのほうなのをいいことに授業など聞いていない。
その便箋は封筒と同じようにシンプルなもので、整った字で書かれたその文章は、やはり楽太への想いを綴ったものだった。そして、文末には「返事待ってます 柄杜里美(1-4)」とある。
「が、がら? え・・・えっと、なんとかなんとかさとみ・・・か。誰なんだろうなぁ」
四組は隣の教室なのだが、楽太は里美という子に心当たりはなかった。こっちは知らないのに、向こうは知っていてしかも好きだという、そのことを楽太はなんだかすごいなあと思った。
「返事・・・早くしたほうがいいよなあ」
楽太は便箋を封筒に戻しながら小さく呟いた。
自分を想ってくれてこんなふうに気持ちを伝えてくれることは嬉しい。その子がどんな子なのかも興味はある。
しかし、嬉しいし興味はあるが、それでも楽太の返事はもう決まっていた。
「あっ、そういえばセンセイ、オレ、ラブレターもらったんだよ」
日曜日、楽太はふと思い出して言った。武流は一瞬ちょっと驚いたように楽太を見たが、すぐに目線を手元に戻す。
「どんな子なんだ?」
「えーと、オレよりも背が低くくて、ショートカットで、・・・そんなかんじ」
楽太はあの日の放課後すぐに里美に返事をしにいったのだ。しかし楽太は里美を思い出そうとしたが、それ以上の特徴は浮かばなかった。
「で、返事どうするんだ?」
「もう断った。あ、一応好きな人とか付き合ってる人はいないって言っといたけど。そしたら試しに一週間だけでもいいからって言われてさ。もちろんそっちも断ったよ」
楽太は当然のように言った。顔が笑ってしまっているのは、楽太にちょっとした期待があるからだ。
「ね、オレってちゃんとモテるんだよ。妬けたっ?」
「別に」
ワクワクして聞いた楽太に、しかし武流は視線も寄越さず短く答える。
「なーんでっ。そりゃ妬く必要なんてないけど、ちょっとくらいさー」
残念がる楽太に、武流は手を休めて目を向けた。
「・・・せっかくそう言ってくれたんだから、付き合ってみたらどうだ?」
「へ?」
楽太は最初聞き間違いかと思い、次に冗談だと思って、一瞬固まってしまった顔を緩ませた。
「なんだー、びっくりしたじゃん」
「・・・別に冗談で言ったわけじゃないよ」
しかし武流は表情を緩めずに言い、楽太をもう一度固まらせる。
「いい機会だからその子と付き合ってみろよ」
「な、なんで・・・?」
楽太は思い切り不安になった。武流は以前よりずいぶん表情の硬さが和らいだとはいえ、まだ楽太には何を考えているのかわからないときが結構ある。しかし、いつもは気にならないのに、楽太は今 初めてその表情に冷たさを感じた。
「高校生同士、話も合うだろうし楽しいんじゃないか?」
「そ、そんなこと・・・」
楽太はその表情を見ていられなくて武流から顔を逸らした。
「セ、センセイはオレが他の人と付き合っても・・・いいの?」
「いいよ。そのほうが、普通なんだろうし」
「ふ、普通って・・・っ」
楽太は思わず机に手をついて武流のほうに乗り出しながら言った。
「そりゃっ、オレとセンセイは、男同士だし年の差だってあるし・・・先生と生徒だし・・・っでも」
「自分でもわかってるんじゃないか」
「だからそうなんだけど、でもオレは・・・」
それでも自分は好きなのだと、そう言おうとした楽太はそこで言葉をとめる。前に同じようなことを考えたのを思い出したのだ。
付き合い始めて少し経った頃、たくさん障害があって、しかも何かあったときの責任は武流が取ることになるのだと楽太は知った。しかしそれでも楽太は武流とこの関係を続けることを選んだのだ。なんにも知らない振りで、武流から離れないことを選んだのだ。
しかし、いくら知らない振りをしても、確かに知ってしまっていることに変わりはない。
そして、楽太は武流にも自分のことを好きでいて欲しいと思った。どんな障害や大変なことがあっても、好きでいて欲しいと思った。
しかし、もし武流のほうがもう嫌だと言ったら、そんな場合を考えたことがなかったと楽太は気付く。いや、そんな可能性なんて考えたくなかったのだ。
楽太は、武流にどんな心境の変化があったのかはわからないが、今がそのときなのかもしれないと思った。
「・・・センセイは、オレに他の人と付き合って欲しい?」
なんとか目を逸らさずに問う楽太に、武流も何を考えているのかわからない表情を向けて言う。
「そうして、欲しい」
武流の言葉は、妙に二人の間に大きく響き、しばらくお互いに視線は外さないまま口を閉ざした。
「・・・・・・ったら」
しばらくして、楽太が視線を動かして口を開いた。
「センセイがそう言うんだったら、オレ・・・」
そこで楽太はまだ迷うように下を向いて、それから顔を上げた。その表情はやはりまだ迷いを見せている。
「オレ、付き合ってみる。とりあえず一週間。そんで・・・」
本当は嫌だと言いたいのを抑えて、楽太はなんとか声を出す。
「そんで・・・もし・・・」
楽太はここで完全に終わらせてしまうのが嫌で、少しでも可能性を残したかったのだ。しかし、楽太にはここまでしか声を続けられず、急いで荷物をまとめると武流に声も掛けずに部屋を駆け出していった。
「一体何があったんだ?」
火曜日、部活が終わって教室で制服に着替えながら良太はそう楽太に声を掛けた。本当は昨日から気になっていたのだが、何か事情があるのだろうと聞くのを遠慮していたのだ。
「・・・見ての通りだよ」
良太の問いに楽太は少しボーっとしながら答える。
楽太は月曜日から里美と付き合うようになった、ように良太には見えた。放課後は里美も部活に入っているらしく一緒に下校していたし、昼食も共にしている。
他の生徒には間違いなく二人が付き合い始めたように映っているだろうが、楽太と武流の関係を知っている良太にはそれをどうとっていいかわからなかったのだ。
「見ての通りって・・・付き合ってるってことか?」
「そーだよ」
億劫そうに制服に腕を通しながら楽太はなんでもないことのように言った。
「そーって、だっておまえ、先生は」
「だって、センセイがそうしろって言ったんだもん」
理解できなくて問い返そうとする良太を、楽太がさえぎった。その声は感情的なものではなく逆に妙に静かで、良太は困惑してしまう。
「・・・じゃ、オレ帰るから」
良太がどう声を掛けようかと迷っているうちに、楽太は着替え終わってカバンを手に教室を出ていった。
「あ、ああ、じゃあ」
良太はもう聞こえていないかもしれないと思いながらも一応返事を返した。そして、首を傾げる。
「別れた・・・というか、ふられて、んで別の子と付き合いだしたってことか?」
状況と楽太の言葉をそのまま解釈すればそうなるのだが、しかし良太にはなんだかしっくりこなかった。
たしかに思い返すと、今週に入って楽太の武流に対する様子は少しおかしかった。楽太はいっつも授業や部活のあと必ず武流に嬉しそうに寄っていっていたのに、月曜日以来全く寄り付こうとしていないのだ。
そして、いつも明るい楽太がやはり月曜日以来どこか元気がない。ボーっとしているというか虚ろだというか。良太がこんな楽太を見たのは、楽太が武流への想いに悩んでいたとき以来である。
だから、楽太が武流と何かあったというのはすぐに予想が付くことだった。しかし、実際に楽太から聞いても、良太はどうにもスッキリしなかった。
「なんか、変なかんじだよな・・・」
良太は二人がどんな付き合いをしているのか楽太からノロケ話を聞かされることで間接的には知っていたが、直接的にはほとんど知らなかった。いろいろな要素から考えると、一般的に見て二人がお似合いだとはとても言えないし、良太から見てもそうだと言えるかどうか微妙だ。
しかしそれでも、良太には受け入れ難く思えた。楽太と武流が上手くいかなくなったということが。楽太が別の子と付き合い始めたことが。
良太は、知っているからだ。
楽太が、どれだけ武流のことを好きだったか。楽太が、どれだけ武流と付き合っていて幸せそうだったか。
「なんでだよ・・・」
良太はどうしても納得出来なかった。
別れることや新しい恋人を作ることは選択肢の一つだと思うが、楽太が笑えなくなるような選択など、良太は認めたくなかった。
「なんでだよ・・・」
良太は、それでも自分にどうにか出来るわけではないのだと、悔しそうに俯いた。
土曜日、部活が終わって楽太は少々急いで着替えていた。里美と一時に待ち合わせしているのだが、今から一旦家に帰って昼食を食べると時間がギリギリになりそうなのだ。
「じゃ、良太、オレ先に帰るな」
言いながら教室を出ていった楽太を良太は慌てて追い掛けた。
「待てよっ、オレも帰る」
走ってきて並んだ良太に、楽太は少し目を遣ったがしかし歩く速度を落とさない。
「これから柄杜さんと約束してるのか?」
「うん、そう」
良太の問いに楽太は笑って答えた。
「・・・楽しみ?」
「うん、そりゃあ」
良太の問いに、楽太はやはり笑顔で答える。そんな楽太を見て良太はホッとしたように言った。
「・・・よかった」
「何が?」
わからず聞き返した楽太に、良太はちょっと迷いながら口を開く。
「だってさ、なんか楽太、先生と駄目になって、それで仕方なくとかなんとなくで柄杜さんと付き合ってるのかと思ってたから。でも、ちゃんと楽しいんならいいや」
まだショックが残っているかもしれないと気を遣いながら言う良太に、楽太は一瞬目を丸めて、それから笑顔になった。
「楽しいよ。ちゃんと」
ちゃんと、楽しい。
楽太は言って、少し微妙な表情をした。しかしそれに良太が気付く前に、楽太は走りだす。
「悪い、昼飯食えなくなったら嫌だからっ」
相変わらずすばしっこい楽太はあっという間に良太から遠ざかっていった。
楽太はなんとかちゃんと昼食を食べて、少し遅れたが待ち合わせ場所に着いた。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今 来たところ」
先に来ていた里美とお決まりのやり取りをして、楽太はこんなふうに待ち合わせしてデートすることが初めてだと気付いた。
「ね、どうする?」
少し首を傾げて里美が上目遣いに尋ねる。
里美は、楽太が始めて会ったときは余り興味がなかったから印象に残らなかったのだが、こうして付き合うようになって改めて見ると結構可愛い部類に入る子だった。
小柄な体に小さな顔、大きめの目、陽に透けると明るい茶色になるショートカット。年齢にしては少し幼く見えるが、それは楽太も同じなので、二人は並ぶととてもお似合いに見えた。
「えーと、映画でも見に行く・・・のかな?」
年上とした遊んだことがないのでどうリードしていいかわからず頼りなく言う楽太を、里美はバカにすることなくちょうど見たい映画があると返し、二人で歩きだす。
里美と付き合うのは、楽しかった。
一緒に弁当を食べるのも、待ち合わせてデートするのも、映画料金を払ってあげるのも、昼間に街を二人並んで歩くのも。全て楽太には初めてのことで、新鮮で、楽しかった。
高校生同士話も合うし楽しいだろう、そう言った武流の言葉をまさに今楽太は実感していた。それら全ては武流とでは出来ないことばかりだから。
だから、里美と付き合うのは、楽しかった。
見た映画はちょっと切ないラブロマンス。思わず涙ぐんでしまった楽太は、同じように瞳を潤ませた里美と目が合って、互いに照れたように笑った。
そして次は里美に付き合って洋服を見にいき、その次は楽太に付き合って靴を見にいって、互いに似合うと言い合う。
「ちょっと疲れちゃった。その辺で休憩しない?」
そうこうしているうちにいつの間にか六時近くになっていて、里美はすぐ近くに見えた広場を指して言った。
「うん。じゃ、オレ何か飲むもん買ってくるな」
楽太は自動販売機に向かい、里美は広場の片隅にあるベンチに座った。楽太もすぐに缶ジュース二本を手に戻ってきて、里美の隣りに座る。
片方を渡して残ったほうに口を付けながら、楽太は里美に目を遣った。その視線に気が付いて里美も楽太のほうを見る。
「あのさ、オレの・・・どこがいいの?」
「えっ・・・と、それは・・・」
それが結構気になっていた楽太は率直に尋ねた。里美はその突然の質問に驚いて、パッと顔を赤らめて俯きがちになる。
「その、石井君って、・・・そんなに大きいほうじゃないよね」
「ていうか、ちっちゃいよ」
気にしているかもしれないと控えめに言う里美に、楽太は別に気にしていないと笑顔で返す。
「それで、それなのにすごく元気で、明るくって、体育祭のときとか足速くてすごいなって思って。・・・・・・その、なんて言っていいかわからないけど、いつの間にか目が離せなくなってて・・・」
言葉を探しながら里美は赤い顔を俯けたままで言う。
「ごめん、なんか上手く言えなくて」
「ううん、そんなもんだよね」
人を好きになる理由なんて。楽太の胸が、ジリッとする。
しかし楽太はそれから意識を逸らして、体を少し里美のほうに向ける。
「あのさ、月曜日から付き合ってさ」
「う、うん・・・」
普段よりも真面目な顔をして切り出した楽太に、里美は審判が下されるのだと悟って息を呑む。
「楽しかったよ。オレ、こんなふうに女の子と付き合ったことなかったし・・・。楽しかった」
「うん」
里美の白くなるほど握り締められた手に、楽太は少し言葉を続けるのを躊躇った。しかし、楽太にはそれ以外に言うべき言葉はないのだ。
「楽しいけど・・・でも、それだけなんだ」
楽しいし、正確に言うとそれだけじゃなくて目が合ったりちょっと体が触れたりするとやっぱりドキッとする。
でもそれだけじゃ、駄目なのだ。何もかも忘れられるほど激しい情熱を抱かせてくれないと、今の楽太には駄目なのだ。
「・・・だから、ごめん」
その理由を上手く説明できず、楽太は簡潔に結論だけを告げた。ハッキリ言ってしまうほうが里美の為でもあると思って。
しばらく二人の間に沈黙が降り、次の瞬間、里美が勢いよく立ち上がった。
「そう、言われると思った」
普通を装おうとしているのだろうが、しかしその声は少し震えている。
「だって、恋人ってよりも友達ってかんじだったでしょ? 私のこと」
「・・・うん、そうかも」
友達とは違うと思ったが、しかし恋人よりはまだそっちのほうが近いだろうと思って楽太は肯定する。
「・・・楽しかったって言ってくれて、嬉しい。私も楽しかったよ」
「・・・うん」
楽太はごめんと言いたくなるのを抑えた。ここで謝るのは卑怯だと思ったから。
「・・・じゃあ、ね」
里美はそう言って、結局楽太にその表情を見せることなく走って行ってしまった。
もしかしたら、泣いていたのかもしれない。しかし楽太には里美を追い掛けることなど出来なかった。もう何も、言ってあげられることもしてあげられることもなかったから。
申し訳ないことをしたと言う気持ちは、もちろんある。二回も振ってしまったことになるのだから。
しかし楽太は、好きになれればいいと思った。里美のことを好きに、なりたかった。そして、高校生らしく付き合って、そうすればそのうち消えていくと思った。
でも駄目だった。少しも消えないどころか、ますます募っていくだけだった。
痛みと、愛しさが。
「センセイ・・・」
楽太はあれ以来始めてそう口にした。
同級生と付き合って、ただの先生と生徒に戻って。忘れられるなら忘れたかった。消してしまえるなら消してしまいたかった。
この想いはもう二度と、届かないのかもしれないのだから。
「センセイ・・・っ」
胸を抉るような痛みが楽太を襲う。
楽太は立ち上がった。そして走り出す。
じっとなんてしていられなかった。
だから、楽太は走った。
「センセイっ!」
数メートル先に見えたその姿に、楽太は周囲を憚ることも忘れ声を上げた。
ちょうど外出するところだったのか教師用アパートの外に付いている階段を降りていた武流を、楽太はその下まで行って見上げた。
「センセイ、オレ」
こうやって目を合わせるのも、あれ以来だ。もう辺りは暗く、自分を見下ろす武流の表情はほとんどわからなかったが、楽太はそれでも胸がいっぱいになった。
「オレ、センセイの言う通り付き合ったよ。高校生らしく一緒に弁当食べて下校して待ち合わせしてデートして。センセイの言う楽しいこと、したよ。普通の付き合い、したよ」
楽太は一番言いたいことを、しかし言い出せず遠回りなことを言う。
「でも、オレ、オレは」
そこで言葉を詰まらせた楽太は、武流をただ見上げた。武流は階段を数段降りたところで立ち止まっていて、二人の距離は二メートルもない。
そのとき楽太に生まれた衝動は、口よりも先に体を動かしていた。
階段を勢いよく駆け上がり、ぶつかるように抱き付く。それを受け止め切れなかった武流はうしろに倒れ込み、なんとか手を付きながら痛みに顔をしかめた。
楽太にもその衝撃は伝わったが、しかし離れようとはしなかった。一段下に膝をついて武流の体にしがみ付く。
約一週間ぶり、そんなのは今までもあった。なのに、その体つきや匂いやすぐ側にいるということ、そんなのがひどく楽太を揺さぶる。
もう二度と、こんなふうに近くで感じられないかもしれない。声も笑顔も体も気配も心も。
そんなのは耐えられなかった。
「センセイ、オレはっ」
楽太はそれまで武流の胸にうずめていた顔を上げて、真っ直ぐ見つめた。至近距離から見た武流の顔は、しかしいつの間にか溢れていた涙でぼやけている。
「オレは、センセイが・・・好き」
離れたくないとか他に代わりなんていないとか、いろいろ言いたいことはあるのに、楽太にはその今まで何度も繰り返してきたセリフしか口に出来なかった。
「センセイが好き。センセイが好き。センセイっ好き、好き」
武流の服をギュッと掴んで、楽太は流れる涙も溢れる言葉もとめようとせずただ続けた。
「センセイ、好き、センセイ、好き、センセ・・・っ」
二つの単語のみを何度も繰り返していた楽太は、しかし突然口を塞がれて何も言えなくなる。
楽太の唇に触れているそれは、いつの間にか背にまわされている腕とともに楽太に眩暈に似た感覚を与えた。
「んっ・・・」
なんの前触れもなく施された口付けに、楽太はすぐに応えて互いにそれを深めていく。どうして武流がこんな行動に出たか、そんなことはこの瞬間の楽太にはどうでもよかった。
唇を合わせ何度も口付け、舌を絡ませ息継ぎすら忘れるほど貪り合う。一週間前に愛を囁き合って交わしたキスと何一つ変わらないそれに、楽太はただ夢中になった。
どれだけそうしていただろうか、楽太の息がかなり上がってきたのに気付いてか武流が口付けを解く。そして、楽太をその後頭部と背中に遣っている手で引き寄せ力任せに抱きしめた。
「・・・ごめん」
やっと出された武流の言葉は、低く掠れている。その内容に戸惑う一方で、楽太はすぐ近くで聞こえる声にすら悦びを感じていた。
「・・・何が?」
問い返した楽太の首筋辺りに顔をうずめながら武流は少し言いづらそうに続ける。
「・・・俺は、怖かったんだ」
「・・・?」
楽太はいつも余裕で自分をあしらっている武流と「怖い」という言葉が結び付かなくて首をひねる。
「・・・これからお前を好きになる子はたくさんいて、その子たちはきっと俺じゃ決してしてやれないことをお前に与えることが出来る。だから、そんな子が目の前に現われたら、お前は・・・その子を選ぶかもしれない・・・」
そんなことない、楽太は咄嗟にそう否定しようとしたが、しかし黙って武流の次の言葉を待った。武流のこんな頼りなさそうな声も言葉も初めてで、だからちゃんと最後まで聞きたかったのだ。
「今までだって考えてなかったわけじゃないけど、でも実際にそんな可能性を持った子が現れて、急に怖くなったんだ。お前が、俺以外のやつに目を向けて、そして好きになるかもしれない。・・・だからそうなる前に、お前の心が俺から離れてしまう前に、俺のほうから・・・」
そこで武流は何かに耐えるように言葉を呑み込んだ。その体が少し震えているのは悔恨のためか痛苦のためか、しかし楽太を抱きしめている腕の力は痛いくらいに強かった。
「俺のほうから、突き離して・・・逃げたんだ。そのほうがずっとましだと・・・楽だと思ったから・・・」
途中で途切れさせながらもなんとか言い切って、武流は息をはいた。楽太にまわされている腕も少し緩んで、楽太は自由に動かせるようになった両手で武流に抱き付く。
武流は楽太から見るといつもしっかりしていて、何事にも動じないように映った。もしそれでも何か怖がっていることがあるとしたら、それは二人の関係がばれることでいろいろと失ってしまうことだと思っていた。
しかし、武流は言った。楽太が別の誰かを選んでしまうことが、怖かったと。付き合う上での障害や危険ではなく、怖いのは、楽太の心が自分から離れてしまうことなのだと。
「センセイ・・・」
初めて知った武流の思いは、楽太に軽い衝撃と、それ以上にたまらない嬉しさを与えた。失うのを怖れる、武流にとって自分はそんな存在なのだと。そんなふうに想われていることを知れて、楽太はたまらなく嬉しかった。
「・・・でも、そうやって突き離しておいて、それでも俺は」
しばらく黙って楽太の肩に顔をうずめていた武流は、ふと先程よりもだいぶ穏やかになった声を出した。
「俺はどこかで、お前はきっと俺のとこに戻ってくるって、そう思ってた」
楽太の背にまわされた腕も、抱きしめるというよりは包み込むように優しくなっている。
「俺の勝手で傷付けて、泣かせて。それなのに俺は今、嬉しいんだ」
穏やかであるが、しかしその声はほんの少し湿り気を含んでいる。
「すごく、嬉しいんだ」
「センセイ・・・」
楽太は武流に会うまで抱えていた胸の痛みが、甘い疼きに変わっていくのを感じた。
「センセイ、オレのこと好き?」
「・・・ああ、好きだよ」
傷付けられるのも泣かされるのも、楽太は構わないのだ。こうやって側にいられるなら、こうやって自分を想ってくれているなら。
「だったら、オレのこと離さないで。もう二度と、絶対、離さないでよ・・・っ」
楽太は訴えるように強く言おうとしたが、しかしまた溢れてきた涙によってそれは叶わなかった。
「・・・離さないよ」
静かにハッキリといった武流は、少し体を離して楽太の顔を覗き込む。涙とついでに出ようとする鼻水をなんとかこらえようとして歪んだその顔に、武流は軽く啄むようなキスをした。
「もう、離してなんか、やらないよ」
そして、今度はへの字に曲がった唇に口付ける。やはり涙でぼやけてハッキリとは見えないが、しかし武流のその顔にはもう冷たさも迷いもないように楽太には見えた。
「っうん」
楽太は縋るように武流に手をまわしてその口付けを受ける。
武流が決して楽太を離さないと言ったように、楽太も決して武流から離れないと思った。一緒にいてつらいことや大変なことがあっても、それでも一緒にいられない苦しさよりは全然ましだ。
声を聞けない、笑顔を見れない、体に触れられない、側にいられない。楽太にはそれがなによりも耐えられないことだと、実感させられた。
二人は抱き合ったままで、この一週間を取り戻すように何度もキスを交わす。鼻水を啜りながらのそれは少々息苦しかったが、こんな苦しさなら大歓迎だと楽太は思った――。
END
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楽太を泣かすの、楽しいです。
それはともかく、「Student」と「Teacher」の流れを汲む話でしたが、
まだ片はちゃんと付かなかったっぽいので、それはそのうち。
「Excuse」は「許す、辞退する、理由、おわび」とかそんなかんじ。
つか、「外で堂々とイチャついてやがる」シリーズ第四弾(くらい)ってかんじ・・・
しかし、振り返ってみるにこの話で楽太は、一般的な攻がこだわる
「かっこよさ、見栄張り、頼るより頼られたい・抱きしめられるより抱きしめたい心理」
とか諸々を、全部放棄したよね・・・。