#Latent





「あ、良太も入ることにしたんだ」

 一時間目のあとの休み時間、楽太はうしろの席を振り返って言った。良太は入部届けに「弓道部」と書いている。

「うん。なんか楽しそうだしさ。次 数Tだし、ちょうどいいから出そうと思って」

 そう言って良太は書き洩らしがないか紙を見直した。

 入部届けはその部の顧問か部長に出すことになっている。そして、楽太のクラスの次の授業は弓道部顧問の先生が担当する数Tなのだ。

「オレもそう思って書いてきた。入部金って500円だっけ?」

「そう。でもそれは学校に納めるやつらしいから、もうちょっと払うのかもしれないけどな。まあオレたちはまだ弓とか着物とか買わなくていんだろうけど。いつかは買うのかなー」

 良太のその言葉に、楽太の脳裏についあの姿が浮かぶ。弓道着を身につけぴんと背を伸ばして弓を射る、その姿。

 その空気に圧倒されたというか呑まれたというか、とにかく楽太は目が離せなかった。しかも、楽太は他人をすごいと悔しくてなかなか認められないタイプなのだが、あのときは何故だか素直にすごいと思ってしまったのだ。それ以来、楽太は何度となくそのときのことを、そのときの先生の姿を、思い出してしまっていた。

 そんな傍から見てるとボーっとしてるしか見えない楽太に、良太が授業もうすぐ始まるぞとその頭を叩く。

「って、何すんだっ」

「だって、突然黙ってボケーっとしだすんだもん」

 ハッと我に返って抗議する楽太に、良太はほら先生来たぞと前を向かせる。

 楽太がはたかれた辺りを撫でながら目を遣ると、その先生はドアに手を掛けて他の先生と話をしていたが、しばらくすると教室に入ってきた。

 楽太はその姿を思わず凝視した。教壇に立っているので高い身長が更に高くみえる。もちろん弓道着ではなくスーツ姿で、ネクタイまできっちり締めている。

 そして楽太はそのときはほとんど目に入らなかった顔に目を遣った。楽太が一つだけ覚えていたその眼差しは、改めて見ると吊り目気味で険しく、硬い表情と合わせてかなり怖そうに見える。

 楽太がそんな観察をしている間出席簿に記入していた先生は、終えたらしくそれを閉じて顔を上げた。

「このクラスの数Tを担当する上田です。それじゃあ、課題テストを返すぞ」

 自己紹介もそこそこにそう言って先生は紙束を取り出した。その言葉にクラスがざわめき、楽太も現実に引き戻される。課題テストとは入学式の次の日に早速行われたもので、入学前のはずの春休みに出された宿題とともに楽太を嫌な気分にしたものだ。そして楽太は終わるなりその存在を綺麗サッパリ忘れていた。

「出席順に取りに来い。石井、お前から」

 突然名を呼ばれ目線を向けられて、楽太は慌てて立ち上がって受け取りにいった。渡されるとき一瞬目が合うが、すぐに先生は次の良太に目を移す。

 見るも無残な点数の答案用紙に、しかしそんなこと慣れっこの楽太は全く気にならなかった。それより楽太が何故か気になったのは、先生は自分を覚えているだろうかということだった。

「うわ、おまえすごい悪いな」

 席に戻って返された答案を見直していた良太が、ふと目に入った楽太の答案を見て声を上げる。

「いつもこんなもんだよ」

 ケロッと言う楽太に、良太は逆に感心した。

「・・・よく入れたな、この高校。あ、配り終わったみたいだ」

 良太の言葉に楽太は前に向き直った。

「平均点は五十六。それ以下の人は答案に付けてあるプリントを次の授業までにやってくること」

 先生のその言葉に、平均点にほど遠かった楽太は机に無造作に放った答案用紙をつまんだ。そこには言われた通り十数問の問題が書かれたプリントがくっついていて、宿題嫌いの楽太は溜め息をつく。勉強さえなければ学校も楽しいのになと楽太は本末転倒なことを考えた。





 授業が終わると、楽太は届けを持って教卓にいる先生のところに寄っていった。

「センセイ、はいこれっ」

「ああ、入るんだな、二人とも」

 先生はそう言って楽太とそのうしろにいた良太から入部届けを受け取った。その言い方に、楽太はちゃんと覚えててくれたのかもしれないとなんとなく嬉しくなる。

「今日から来るか?」

「あ、体操服持ってきてないけど」

「いいよ。最初だから説明受けるくらいだろうし」

「行く行く。いっぱい練習して、オレ、絶対センセイみたいに出来るようになるからっ!」

 楽太は先生を見上げて張り切ってそう言った。

「ああ、頑張れよ」

 先生はそう言うと背を向けようとし、ふと楽太に目線を戻した。

「それと、勉強のほうも、頑張れよ」

「・・・う、うん」

 そう言う先生に楽太はさっきのテストの点数を思い出して、自信なさげに苦笑いした。

「わからないとこあったら、いつでも聞きにこい」

 そんな楽太に先生はそう言うと教室を出て行った。

「じゃ、黒板消すか」

「あっ、そうだった」

 良太に促されて楽太は黒板消しを手に取る。出席番号が一番と二番の二人は今日から本格的に授業が始まったので週番になったのだ。ちなみに、週番といっても一日だけなので実質的には日直なのだが、何故だかそう呼ばれている。

 先生の書いたちょっと右上がりの角張った字を消しながら楽太は良太に話し掛けた。

「なあ、センセイ、オレたちのこと覚えてたかな?」

「さあ。まあ確かにおまえの髪型目立つしな」

「髪って、そこかよっ」

 手でギザギザを作りながら言った良太に、楽太は癖毛で立ちまくっている自分の髪を抑えながら返す。

「だってさ、オレたちにとったら自分と関わる先生って二十人くらい?だけどさ、でも先生にとったら生徒なんて百人二百人いるだろ。だから、よっぽど目立つ生徒とかじゃないと、先生だっていちいち覚えてられないと思うよ」

「・・・そっかー」

 黒板を消し終えて席に戻りながら楽太は眉をひそめて言った。

「でも、おまえって目立つほうだと思うけどな。髪形はおいといても」

「っていうか、目付けられてた、ってかんじだな。オレ、成績悪いし宿題ろくに出さなかったから」

 実際楽太は中学のとき先生に何度となく呼び出されていた。そういう意味では先生の目に留まりやすいと言えるかもしれないが。

 楽太の目に机に置いたままの課題テストの答案が映る。

 このままいったら、悪い意味で目を付けられるのはわかりきっていた。少なくともすでに自分は勉強ができない生徒だと思われているだろうと楽太は思った。

「・・・なんか・・・悔しい・・・?」

「何が?」

 思わず呟いていた楽太は良太に聞かれて慌ててなんでもないと答えた。

 なんでもないことはないが、何がと言われると楽太にもわからないのだ。問題が解けなくても宿題やってなくて教師に怒られても、楽太は悔しいと思ったことはない。そもそも、今感じてるのが悔しいなのかもわからなかった。

「・・・・・・まあいいや」

 自分が単純なことを自覚している楽太は、めずらしく複雑なかんじの自分の感情に、しかし考えるのをやめた。そのうちわかるだろうし、わからなかったらそれはそれで自分にとっては大したことないことではないのだろうと楽太は思ったのだ。

 いい意味でも悪い意味でも前向きな楽太は、次の授業の教科書を出そうと机をあさる。そして数Tの教科書とプリント付き答案用紙をしまいながら、楽太はちらっと思った。わからなくってもし気が向いたら教えてもらいに行ってもいいかな、と――。





END


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「Latent」とは「潜在期」って意味です。

楽太、落とし穴に落ちるまであと三歩ってかんじ。