#Zero
逃げ出したのは、自分だ。
だから何かを言う資格などない。
何も、ない――
「他の人と付き合って欲しい」
そう武流が言うと、楽太は最初驚いたように表情をとめた。それからボーっとしたような顔になり、最後に迷ったような思い詰めたような顔になった。
「センセイがそう言うなら、付き合ってみる」
そう言って、そのあとにまだ二人の関係を続けられる可能性を探ろうとした楽太は、しかし何も言わずに出ていった。
そして楽太は翌週から武流が薦めた通りに里美と付き合うようになった。里美が言った試しの一週間を過ぎても、二人はそのまま付き合っていた。
こうして、武流と楽太の関係は、終わった。
表面上は間違いなく、終わった。
「・・・あ」
武流は学校に着いてから、ネクタイを締め忘れていることに気付いた。実のところ教師になりたてでまだスーツに慣れていないときは朝寝過ごしそうになって忘れてしまうことがしばしばあったのだ。しかしこの数年はそんなことはほとんどなくなっていた。
つける必要があるわけでなく、またそれが可能なわけでもないので武流は気にしないことにした。何故 今になって忘れてしまったのか、それも、気にしないことにした。
朝の職員会議が終わって、一時間目が空いている武流は特にすることもなく煙草の箱に手を伸ばした。
一本取り火をつける武流に、同じように授業がなく隣の席に座っていてた宏が目を留めた。
「あれ、先生、煙草吸ってましたっけ?」
「いや、最近始めた」
紫煙をはき出す、そのさまになっている姿を、宏は何か言いたげに見た。宏は武流と楽太の関係を知っていたので、楽太が女子生徒と付き合い始めたことを不思議に思っていたのだ。そして今 知った喫煙を始めたということを、どうしてもそれに結び付けて考えてしまったのである。
しかし宏は何も言わずに自分の机に向き直った。自分が口を挟むようなことではないと宏は思ったし、今の武流はどうも気軽に問いただせるような雰囲気ではなかったから。
実際、武流は例え聞かれても、答えるつもりなど全くなかった。どうして楽太から離れようと思ったのか、それは誰にも言うつもりはなかったし、楽太にだって言っていない。
煙草を始めたのは、吸っている間は何も考えずに済むからだ。楽太を遠ざけた自分の勝手、言った通りに付き合い始めた楽太、を。自分が望んだことなのに、どうしようもない後悔と痛みを覚えている自分、を。
ただ、もし楽太が里美と付き合っていて、高校生らしい平凡な幸せを得ることが出来るのなら。それならば、自分の決断が間違っていなかったのだと、少しは思えるような気がした。
楽太が自分ではない誰を選ぶこと、それを怖れて離れた筈なのに、今の武流はそこに救いを見い出そうとしていた。
楽太が自分以外の誰かにあの笑顔を向けること、それは身を切るようにつらかったが、それでも武流はそれこそが自分の望んでいたことだと、思いたかった。
楽太が里美と付き合い始めてから、三週間ほどが経った。
武流には楽太が内心で何を考えているのかはわからなかったが、それでも表面上は至って普通にふるまっているように見える。武流に対して、さすがに好んで声を掛けてきたりはしないが、あからさまに避けるなんてことはなかった。
武流はそれに大分助けられ、このまま自然にただの先生と生徒に戻れるのだと、そう思った。そうすれば、もしかしたら今度のことでできたかもしれない楽太の傷も、自分が今抱えている身勝手な喪失感も、いつかは消えていくだろうと、武流はそう思った。
「あの、先生」
部活のあと、一階の渡り廊下を歩いていた武流に声を掛けてきたのは、良太だった。
「あ、あの、本当はオレが口出しすることじゃないってわかってるんですけど」
良太はちらちらと武流に視線を送りながら、言いにくそうに口を開いた。武流は良太が言いたいことに想像がついて、それでも普通を装って顔を向ける。
「楽太と、何があったんですか? なんで楽太、ああなったんですか?」
「・・・別に」
その武流の素っ気ない答えに、良太は顔を歪めて、まるで泣き出しそうな表情で言う。
「・・・楽太、なんか最近変なんだよ。なんて言っていいかわからないけど、変なんだよ」
「そうか? 普通に見えるけどな。柄杜とだって、上手くいってるみたいだし」
武流は何度も見た二人の姿を思い出しながら、声にはなんの感情も込めずに返す。里美といる楽太は、いつも楽しそうに笑っていた。武流にはそう見えた。
「稲葉、親友思いなのはわかるけど、少し心配し過ぎなんじゃないのか?」
教師らしく言って良太の肩を軽く叩くと、武流は背を向けて歩きだした。
「せ、先生っ、本当にあいつ、おかしいんだって! 先生っ」
良太はその背に尚も言い募ったが、武流はもう振り返らなかった。
楽太は、里美と付き合っていて、それで楽しい筈だ。幸せな筈だ。そうでなければ離れた意味がない。楽太に普通の子と付き合って、それで誰にもうしろめたいことがない幸せを掴んで欲しい。そう思って、離れたのだ。
武流は楽太と別れた理由をそうすり替えながら、楽太の為だと自分の勝手を正当化しながら、それでも消えない後悔と痛みから目を逸らした。
「あ、ちょうどよかった。送ってってよ」
土曜日の部活を終えて帰ろうと車に乗り込み掛けた武流は、笑顔でそう言われた。声だけでわかったが、一応振り返ると、そこにいるのはやはり楽太だった。
「ね、いいじゃん」
そう言って勝手に助手席に座ろうとする楽太を、武流はとめることは出来ず、そのまま車を走らせだす。
しばらくは二人とも無言で、お互いに前だけを見ていた。それでも確かに近くにいる気配に、武流は良太の言葉を思い出す。
あれから何度も楽太と里美が一緒のところを見たが、武流は楽太が変だとは思わなかった。授業中も部活の時間も、やはり楽太は普通に映った。今も、笑ってはいないが、どこもおかしくなど見えない。
「・・・柄杜と、上手くいってるのか?」
武流は視線は向けず、そう尋ねた。
無神経な質問だとはわかっているが、しかし武流はそれを肯定する言葉が今 聞きたかった。楽太本人の口から楽しいと、幸せだと聞くことが出来れば、それでもう楽太に関することにけりをつけてしまおうと、武流はそう思った。
そんな内心は表情に出さない武流に、楽太は笑って答える。
「上手くいってるよ、すごく。この前は、ほらちょっと前にできたテーマパークあるじゃん。ちょっと遠くの。そこ行ってさー」
楽しそうに話す楽太は、やはりどこにも変なところはなく、以前と全く変わらなく見える。
「で、そのとき、日帰りは無理だから泊まりがけで行ったんだよ」
楽太の顔は、少しも笑顔を崩さない。
「それで、エッチもしちゃった。あ、これ、誰にも言わないでね」
口元に人差し指を当てておどけたように、楽太は秘密だよと笑った。
瞬間奔った痛みに、しかし武流は気付かない振りをして、平静を装い頷いた。楽太は里美と付き合っていて、幸せなのだ。それがわかった、それでいいのだと、武流は自分に言い聞かせる。つらく思うなど、元より自分にはその資格はないのだ。
「あ、煙草だ。吸うようになったんだね」
楽太は$$$(フロントガラスのとこにある物置けるとこ)に置いてあった煙草の箱に目を留めて、やはり楽しそうに笑って言った。
「吸いたかったら我慢しないでいいよ」
「・・・いや、煙は体に悪いから遠慮しとく」
ちょうど信号に掛かったので武流は視線を少し楽太のほうに向けた。
「・・・そーだね、オレ、将来有望な若者だしね」
その言葉と、相変わらず浮かんでいる笑顔に、しかし武流は何故か微かな違和感を覚えた。何かが、違う気がする。
だが、武流がもう一度楽太に目を遣ると、その笑顔は少しもおかしいところなどないように見えた。普通の、自然な笑い顔だ。武流は気のせいだったのだと思い直した。
それから武流のほうから声を掛けることは出来ず、楽太も何も言わなかったので、しばらく沈黙が続く。
やがて楽太の家に着き、楽太はドアに手をかけた。そこで、ふと思い出したように、楽太は武流を振り返って言った。
「ね、オレ楽しそうに見える?」
突然の言葉に、武流は咄嗟に答えられず、ただ楽太を見返した。
「・・・センセイにだけは、本当のこと教えてあげるよ」
武流を見る楽太の顔は、笑っている。
「オレね、柄杜のこと、好きじゃないんだ」
その笑顔は、普通の以前となんら変わりない笑顔、の筈だ。
「もちろん嫌いなわけじゃないけど、でも全然好きじゃないんだ。言ってみれば、どうでもいい、かな」
何も返せず呆然と聞いている武流に、楽太はドアを開けて降りながら言葉を続ける。その口調はさっきテーマパークに行ったとかエッチしたとか言ったときと全く変わらない。
「だけどさ、柄杜ってほんとにオレのこと好きみたいなんだ。オレの言うことなんでも聞いてくれるもん」
楽太は少し開けたままのドアに寄り掛かるようにして武流を見た。
「ヤダって言ったら、その通りにしてくれるし。だから、すごく便利。いろいろとね」
武流の目を真っ直ぐ見てくるところも、その明るい声色も、何一つ変わっていない。
ただ、目が、笑っていなかった。いつもいろんな思いをそのまま映してきた楽太の大きな目が、今はなんの感情も宿していないのだ。
「じゃ、送ってくれてありがと。またねっ」
楽太は手を振ってマンションに入っていった。
しかし、武流はその姿を見送ることも出来ず、その目線はただぼんやりと先程まで楽太がいたドアの辺りを彷徨っていた。
聞き間違いだと思いたい。
さっきまであんなに楽しそうに、里美とのことを話していた。
見間違いだと思いたい。
さっきまであんなに楽しそうに、以前と変わりない笑顔を見せていた。
しかし違えようもなく、現実だった。楽太は、変わってしまったのだ。
表面上は楽しくふるまいながら、それでも確実に、変わってしまったのだ。
それが自分のしたことの結果なのだと、武流は知らされた。
武流が望んだのは、自分のほうから離れることで失うことの痛みから逃れること。楽太に望んだのは、普通の女の子と付き合って普通に幸せになってくれること。
そのどちらとも、叶わなかった。
自分から離れておきながら武流の胸は痛んだし、今の楽太はとても幸せとは言い難いだろう。
もしあのとき何も考えずにそのまま楽太と付き合っていくことを選んでいたら、武流は一瞬そう思って、しかしすぐに考えるのをやめた。今更、悔やんでも惜しんでも、どうしようもない。時間は戻らないし、何も元には戻らない。
そしてこれからも、何もどうすることも出来ない。
一方的に突き放し逃げて、勝手に誰かと幸せになってくれることを期待して、
そんな武流には、もう言葉を掛けることも、何かをすることも、出来ないのだ。
なんにも、ないのだ。
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まあ、こんなかんじで。
次回は「おもろい最低野郎楽太、その手管」です。