#Zero 2
単純で素直だと、いつだって誰にだってそう言われた。自分でもそう思っていた。
だから、自分がこんな器用な真似が出来るとは思っていなかった。
こんなことが出来るなんて、思ってもみなかった。
「ご、ごめん、つい」
楽太は里美から慌てるように体を離して、俯いた。里美は上半身を起こして、上気した顔を楽太に向ける。
「・・・石井君、私のこと・・・好き?」
小さな声で少し不安そうに尋ねる里美に、楽太も同じように赤い顔を向けて、答える。
「・・・好きだよ」
「・・・だったら、いいよ。私も、好きだから・・・」
益々顔を赤らめながら言う里美に、楽太はその頬にそっと手を遣った。
「・・・本当に、いいの?」
その問いというより最終確認に、里美は小さく頷いて返す。少し震えているその肩に手を掛け、楽太は優しくキスした。
少し遠くにあるテーマパークでのデート、その夜泊まったホテルで、楽太は初めて里美を抱いた。ホテルで好きな子と二人っきりになってつい理性が飛んでしまった、そんな様子を見せた楽太に、里美は容易く体を許した。それが、楽太の演技であったとも知らずに。
それ以来、二人は何度も関係を持った。
それでも里美は、気付いていない。毎回好きな女の子とセックスする緊張と喜びを見せる楽太が、本当は何を思っているのか。里美を抱きながら、何を考えているのか。
里美の肌に触れ、声を聞き、その中に入っているときですら。楽太の頭と心を占めているのは、里美ではないのだ。
手は張りのあるしなやかな体を、耳は低く掠れた声を、思い出す。
何もかもが正反対な体で、唯一同じように楽太を受け入れる場所は、やはり同じような快感を楽太に与える。
目を閉じれば、楽太が抱いているのは里美などではなく、ただ一人の姿を映し出すのだ。
楽太にいわば身代わりのように抱かれていることを、しかし里美は知らない。楽太の、好きだという言葉を、向けられる笑顔を、信じているのだ。愛されていると、思っているのだ。
里美といるのは楽しい。しかし楽太が里美に対して抱いているものは、恋愛感情とはほど遠かった。愛してなど、いない。
それでも楽太は里美に好きだと言い、その体を抱いた。ばれなければ、いいのだ。それだけのことだと楽太は思っている。そして、もしばれてしまったとしても、それでも楽太はどうでもよかった。里美がどれだけ傷付こうが、楽太は全く構わなかった。
いつものように里美と抱き合ったあと、横になってその肩を引き寄せながら楽太は思い返した。自分が好きでもない里美とセックスをしたと言ったときの、驚いたように茫然と見返してきた顔を。
後悔しているだろうか、里美と付き合えと言ったことを。
そうだったらいい、楽太はそう思った。そのために里美とまだ付き合っているのだから。
後悔して苦しめばいい。
楽太は、そう思った。
それから三週間ほど経った。
楽太は相変わらず里美と好きでもないのに付き合って抱き合っている。そして里美も相変わらず楽太の演技に気付いていない。
いや、里美だけではなく、周りの誰も、気付いていなかった。今の楽太の笑顔が、ただの作り物だということに。単純で素直だと定評のある楽太の、その笑顔を疑うような人などいなかった。
母親とそして良太はなんとなく気付いているようで、そのせいで楽太は良太を敬遠するようになった。良太の物言いたげな目線が、鬱陶しかったのだ。
そして楽太を今 不快な気分にしているものがもう一つある。
十一月から産休に入った先生の代わりに臨時講師がやってきたのだが、その北川伊織という若く綺麗な女の先生は数学担当なのだ。だから、よくその先生と武流が一緒のところを楽太は目撃した。
その先生は始めは武流にその近寄り難さのせいか遠慮気味にしていたが、そのうちどうやら好意を抱くようになったらしいのだ。武流がそれに対してなんらかの反応を示すということは今のところないのだが、生徒の間でもお似合いなんじゃないかと噂になるほどだった。
「ねえ、石井君、今週の土曜日か日曜日空いてる?」
心中でいろいろ考えながらも表面上は笑顔を作っていた楽太に、隣で昼御飯を食べていた里美が尋ねた。
「・・・、ごめん、用事があるんだ」
「そっか、都合が悪いんだったら仕方ないよね」
済まなそうに言った楽太に、里美は残念そうだがしかしすぐに諦める。押しが強くなく我侭も言わない里美は、楽太にとってとても都合がよかった。こんなふうになんでも自分の思い通りになるところが、楽太がまだ里美と付き合っているもう一つの理由なのだ。
里美が話題を変えて昨日のテレビの話しなどをし始めると、楽太はそれに楽しそうに相槌を打つ振りをしながら、土曜日に行おうと思っていることについて考えを巡らせていった。
土曜日、楽太は教師用アパートに来ていた。その目的は、武流ではなく、臨時で来た女教師だ。
「北川先生、ちょっと・・・相談っていうか、話があるんだけど・・・」
特に授業を受け持っているわけでもない生徒が尋ねてきて不思議に思う伊織を、楽太は困ったような顔を作って見上げる。伊織が生徒に頼られてそれを厭わしく思うようなタイプではないことくらい、楽太にはわかっていた。
「どうぞ、入って」
そして楽太の予想通り伊織はすぐに部屋に入れてくれる。武流の部屋と丁度正反対な配置のリビングに通された楽太は、落ち着かないように辺りを見回した。もちろんそれは見せ掛けであり、楽太は冷静そのものだ。
「・・・あんまり物ないんだね」
「今は臨時講師で、あと三ヶ月くらいしかいられないから。もしかしたらそのあとも残れるかもしれないんだけど・・・」
伊織は柔らかく笑って、少しの期待を滲ませながらそう言う。何故この学校に残りたいと思うのか、考えなくてもその理由はわかって、楽太は内心で舌打ちした。
「それで、話っていうのは何かしら?」
伊織は楽太をテーブルを挟んだ向かいに座らせて、優しく問い掛けた。
「あ・・・あの・・・・」
楽太は言いづらそうに視線を彷徨わせる。伊織はそれを急かすこともなくじっと待った。そんないかにもいい先生、いい人な様子が楽太の癪に障る。それが彼女の装った姿であろうと元々そういう性格なのだろうと、気にいらなかった。
「・・・あの、これ、誰にも言わないでね」
「もちろん。絶対誰にももらしたりしないから、心配せずに話してちょうだい」
安心させるように微笑む伊織を、楽太は信頼するような顔を作って見上げた。
「あのね、先生って・・・・・・上田先生のこと、好きなの・・・?」
「えっ!?」
伊織は楽太の全く予想外のセリフに、驚きそして次第に顔を赤くしていった。
「ど、どうして・・・」
「みんなそうなんじゃないかって言ってるし、オレも見てたらわかった・・・」
「・・・・・・」
伊織は生徒にそう思われいると知って恥ずかしそうに俯いて、しかし否定はしなかった。そしてそんな恥ずかしさだけではなく頬を赤く染めた伊織は、普段の彼女よりも一段と綺麗に見えて、楽太にまだほんの少しだけあった躊躇いが消えていく。
「・・・あのさ、上田先生はやめたほうがいいと思うんだけど・・・」
「・・・どうして?」
パッと顔を上げた伊織に、楽太は言ってもいいのか迷うような視線を送る。
「理由があるなら、教えて?」
「・・・絶対、絶対に誰にも言わないよね?」
「・・・ええ」
どういうことなのか不安そうな伊織を見ながら、楽太は小さな声で話し始めた。
「・・・オレさ、4組の柄杜って子と付き合ってるんだけど。ちょっとまえに、柄杜が・・・」
楽太はそこで何かをこらえるように唇を噛んだ。そのつらそうな様子に、伊織は思わず近寄って宥めるようにその肩に手を置く。
楽太は大分近くにきた伊織の顔を、惑うような顔はそのままに真っ直ぐ見つめた。
「・・・柄杜が、上田先生に・・・テストのこととかって呼ばれたらしくって、それで・・・そのときに・・・・・・先生が柄杜のこと・・・無理やり・・・」
そこで楽太は今度は俯いて、声を少しずつ震わせてゆく。
「・・・その、最後まではされなかったみたいなんだけど、でも柄杜すごくショック受けてて・・・」
そこまで言って下を向いた楽太を、伊織は困惑して見下ろしていた。もちろんその話の内容にである。
「・・・でも、そんな・・・」
どうしても否定したい気持ちが強くて、何かの間違いじゃないかと言おうとした伊織は、しかしその言葉を飲み込んだ。顔を上げて自分を見つめてくる楽太は、その大きな目に今にも零れ落ちそうな涙を浮かべていた。
「・・・本当なんだよ。柄杜、泣いてて・・・でもこんなこと誰にも言えないし・・・。・・・信じて、くれる?」
その瞳には何一つ嘘がないように、伊織には見えた。だから知らず頷いていた伊織に、ホッとして気が緩んだのか涙が流れるのをとめられなくなった、そんなふうに楽太は服の袖で涙を拭う仕草をする。
そして楽太は目の前の伊織の胸に凭れ掛かるように少し体を寄せた。伊織はその体を思わず抱きしめて、あやすようにいたわるように優しく撫でる。
「・・・本当は、言わないつもりだったんだけど、でも」
楽太は伊織の服を軽く掴んで、鼻を啜ってみせながら言った。
「先生がそんな目に合うの、なんかオレ、嫌だったから」
「・・・うん、ありがとう」
伊織は楽太を撫でる手の動きをとめない。どうやら話の内容よりも、今の楽太の様子のほうが気に掛かっているようだ。なんとなく放っておけない気分にさせられているのだろう。
そして、それを察している楽太はあと一息と思いながら、しばらくは大人しくその腕に抱かれていた。
「・・・っあ、ご、ごめん、なさいっ」
少ししてから楽太は突然伊織からパッと体を離した。存外抱き心地がよかった楽太のぬくもりが去って、伊織はちょっとした寂しさを感じてしまう。
「どうしたの?」
伊織はそれを隠しながら不思議に思って覗き込むと、楽太の顔は真っ赤で少し気まずげだった。
「そ、その・・・」
伊織をちらちら窺うように見ながら、楽太は落ち着かないように体をずらそうとする。
「お、怒らないで聞いてくれる?」
「もちろんよ」
出来る限り優しく言った伊織は、もちろん気付いていない。楽太にその真っ直ぐな目を向けられた瞬間、伊織はもう楽太の罠から逃れられないところに来たのだということを。
「・・・あのさ、オレまだ、し、したことなくってさ」
楽太は知っている。自分が年上の女性にどういうふうに映るのかを。上目遣いで見上げれば、相手が掻きたてられるのが、庇護欲だけではないことを。
「・・・先生、なんか、いい匂いするし」
伊織は自分を見つめる楽太の、どこかうっとりしたような目に、何か逆らい難いものを感じた。そして、それに従って、手を楽太の頬に伸ばす。
「先生・・・」
楽太の手が、その手に添えられる。その動きは、縋るようにも、誘うようにも、伊織には見えた。
「えっと、送っていかなくていいの?」
「いいよ。車持ってないんだよね? もう暗いから、先生のほうが帰り危ないって」
心配そうに言う伊織に、楽太は靴を履き終えて振り返り笑った。
「・・・先生、今日はありがとう。なんか結局、オレのほうが助けられちゃったみたいで」
「いいのよ」
はにかみ笑いを浮かべる楽太に、伊織は優しく微笑んだ。
「・・・あのさ、また、来てもいい?」
楽太はドアを開けて出ようとし、もう一度振り返って伊織を見上げる。その期待と不安が交じったような目に、伊織はもう迷わず頷いていた。
「よかった。じゃあ、ね」
楽太はホッとしたように、それから嬉しそうに笑って、走っていった。
しばらく走って、それから楽太はアパートを振り返った。その視線は、先程いた伊織の部屋ではなく、武流の部屋に向けられている。
車があるので、恐らく部屋にいるのだろうと楽太は思った。そして、薄く笑う。
伊織が楽太の話を信じたかどうかわからないし、武流に対する見方がどう変わったかはわからない。しかし、伊織はもう武流に今迄のように好意を向けることはないだろうと楽太は思った。接すればどうしてもあの話を思い出してしまうだろうから。そして、楽太と関係を持ったことも、少しは影響するだろう。
そのために、楽太は今日ここに来たのだ。そのためなら、武流に汚名を着せることも厭わなかったのだ。
楽太は自分が以前の自分と変わってしまったことを自覚している。武流に突き放されてから、つらくて苦しくて悲しくて堪らなかった。その思いに耐えて、その思いを抑えて。そのうちにどこかが麻痺してしまったのだ。どこかが壊れてしまったのだ。
昔とは確実に変わってしまった。そして、昔にもう戻れはしないことも、楽太は知っている。
もし武流が今やり直そうと言ってきても、もう楽太には以前のように武流に無邪気に笑い掛ける自分など考えられなかった。
もう、戻れないのだ。武流の側にも、昔の自分にも。
しかしそのことはもう楽太を少しも暗い気分になどしなかった。
逆に、妙に高揚した気分だ。
もう戻れない。そのことの前で、戻りたいと考えるなど無駄なことだ。
決して戻れないし、戻りもしない。
自分も、武流も。
それでも、
誰にもやらない。
誰のものにも、ならせない。
楽太はもう一度小さく笑うと、アパートに背を向けて歩きだした。
NEXT→
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いろいろと展開が、おかしい、ていうか、ありえねぇ・・・
次回は「楽太が伊織に気を取られている隙に、武流は・・・!」です。