#Zero 3 





 もう何も考えたくない。

 それでも思い出してしまうから、

 忘れてしまう為にはどうすればいいのだろう――?





「上田先生、最近冴えないみたいですね」

 不景気そうな顔をして煙草を吹かしている武流に、ミドリが穏やかに声を掛けた。ここは美術室で、武流は前の時間空だった宏とここにおじゃまして、宏が授業に行ったこの時間もまだ何をするわけでもないが居座っているのである。

「なんなら僕が誰か紹介しましょうか? 軽く遊べば少しは気が晴れるかもしれないですよ」

 ミドリは人当たりのよい笑顔を浮かべて提案する。ミドリは武流の事情を知ってはいないのだが、何故か人に相談を受けたりアドバイスすることが多いので、なんとなくを察したのである。

 武流はその申し出を断ろうとしたが、しかしそれもいいかもしれないと思った。気が晴れるかどうかはわからないが、少しは気を逸らせるかもしれない。

「・・・例えば、どんな人だ?」

「ええと、それは・・・」

 顔を向けるわけではないが問い返してきた武流に、ミドリは少し驚いた。提案はしてみたものの、武流は宏と同じように軽く誰かと遊ぼうなどとは考えないタイプだと思っていたのである。

「老若男女、どんなタイプでも幅広くいますけど」

 そんなことを思ったとは顔に出さずミドリは答えた。割り切った遊び相手に限っているのに例を挙げるのも難しいとは、ミドリの交友関係も果てしなく広いようである。

「・・・まあ、気が向いたら、頼む」

 武流はそう言って、煙草を消すと立ち上がった。そしてミドリが頷くのを横目に美術室を出る。

 誰かと遊びで付き合ったことなどその必要性を感じなかったためなかったが、今の武流は少なからずそうしたいという思いがあった。何もすることがない時間は、つらく、そして長い。武流は楽太と過ごしていた時間、それまではどう過ごしていた時間だったのか、思い出すことが出来なかった。

「あ、上田先生」

 職員室近くの廊下で武流は三学期から臨時講師として来た伊織に声を掛けられた。同じ一年生の数学を担当しているのでよく相談などを持ち掛けられるのだ。

 しかし話し掛けてくる理由がそれだけではなく、伊織が自分に少なからず好意を抱いていることに武流は気付いている。

 タイミングとしてはちょうどいい機会にも思えるが、しかし武流は伊織とどうこうなるつもりはなかった。自分に好意を持っている人と、おそらく同じ想いを返せはしないのに付き合うことは出来ないと思ったのだ。

 武流が伊織と話しながらふと目を移すと、一階の廊下で立ち話をしている楽太と里美が見える。

 楽太は里美のことが好きではないと言った。それなのに、付き合って、セックスもしたと。里美は楽太のことを本当に好きで、だから付き合いたいと思ったのだろう。楽太はそんな里美を、好きではないどころか、便利だとも言った。

 武流の知っていた楽太は、そんなことをするような人間ではなかった。いつだって真っ直ぐで、いつだって楽しそうに明るく笑っていた。

 今隣の里美に向けている楽太の顔は、笑っている。しかしその笑顔は、以前の楽太とは全く異なっていた。里美も他の人もその違いに気付いていないが、しかし武流には少しも笑っているように見えないのだ。

 楽太は変わった。そしてそれは、自分のせいなのだと、武流は楽太のその笑顔を見るたびに思い知らされた。

 理由も言わずに一方的に別れを告げて、きっとすごく傷付けた。

 あのときの泣きそうだった顔。変わってしまったということ。そして、もう昔のような笑顔は見れないのだと、それを寂しく感じる身勝手な思い。

 考えたくなかった。出来ることなら、忘れてしまいたい。

 自分がしたことの結果なのだ、そうわかってはいるが、武流はそれでももうそんな楽太も自分も見ていたくはなかった。





 土曜日、部活を終えて武流はアパートに帰ってきた。楽太とどうしても顔を合わせてしまうので部活に行くのは気が進まないのだが、しかしそれ以上に矢を射るのは武流の心を落ち着かせるのだ。

「あ、君が武流くん?」

 車を降りて階段を昇ろうとした武流に、うしろから声が掛けられた。振り返ると、武流と同じ年頃の一見軽薄そうな男が立っている。

「オレ、ミドリの知り合いなんだけど、よかったらこれからお茶でも付き合ってくれない?」

 突然の出現に突然の誘いだが、武流は数日前にミドリと話したからなのだろうとたいして驚かなかった。

「どう?」

 すぐ側に停めてある車のドアに手を掛けながら男は武流に聞いてくる。武流は少し迷ったが、しかしついていくことにした。どうせこれから何もすることがないのだから、と。

 武流が私服に着替えてから戻ると、男は車を走らせだした。

「オレの名前は四條篤弘。名字でも名前でも好きなほうで呼んで。そういえば、武流くんって勝手に呼んじゃったけど、いい?」

「ああ、別に」

 篤弘は派手めの外見や言葉遣いから軽そうに思えるが、その物腰や話し方は彼を逆に落ち着いた人に見せている。今迄 自分の周りにいなかったタイプだが、武流は嫌ではなくむしろ心地よさを感じた。

「ミドリから話聞いてさ、なかなかオレ好みだと思って勝手にのこのこ会いにきたんだよ。誘いに乗ってくれたってことは、男でも大丈夫な人なの?」

「・・・たぶん」

 篤弘はすらすと澱みなく話した。しかしそれは決して押し付けがましくなく、武流にとって篤弘のそんな話し方は楽だった。

「もしよかったらさ、オレと付き合わない? もちろん友達からでもいいし、体だけの遊びの関係から真剣に付き合うのまで、なんでもいいからさ」

 篤弘は人気のない道の脇に車を停めて、武流のほうを向いた。

「・・・・・・」

 黙ってその顔を見返した武流に、篤弘はそっと手を伸ばしてくる。その試すような手が、髪を撫で上げ頬に触れても、武流には嫌悪感など浮かばない。少しずつ近付いてくる篤弘の顔を、ぼんやりと見ていた武流はやがて目を閉じた。

 触れ合う唇の感触は、やはり武流に嫌悪感も拒否感も与えない。武流が男と関係したのは楽太が始めてだったが、そのときも躊躇いなど感じなかった。それは楽太に好意を持っているからだとそのときは思ったのだが、しかし本当にそうだったのか今の武流にはもうわからない。篤弘とは会ったばかりなのに、それでもその次第に深くなる口付けを、嫌だと思うどころか武流は確かに好んで受け入れていた。

 人は、容易く快感を感じることが出来るのだ。そこに心がなくても、体さえあれば。そして、それは、他のどんな感覚、感情にも勝る。

 武流は、そうなのだと思った。そうであって欲しいと、思った。

「・・・嫌がらなかったってことは、いいってこと? 少なくとも体に関しては」

 篤弘は少しおどけたように言ってまだ引き返せることを教えるが、武流はしかしもう自分がそうしないであろうことに気付いている。

「・・・あんた、上手い?」

「うん、結構自信あるよ。っても、オレはやる側しかしたことないんだけど」

 篤弘は武流の額に自分のそれをくっつけるようにして、優しいというよりも諭すような笑顔をする。

「それでもいいなら、オレは君を気持ちよく出来ると思うよ。何も、考えられなくなるくらいにさ」

 そう言ってもう一度寄せてきた唇を、武流は迷うことなく受け止めた。

 何も考えられなくなる、何もかも忘れられる、そんなものが武流は今欲しいのだ。

 それを与えてくれるのなら、武流は何にだって、誰にだって、縋ってしまおうと思った。





「・・・はぁ」

 体を少し離して息をつきながら、篤弘は汗で額に張り付いた武流の前髪を梳いた。

「武流くん、どうだった・・・なんて質問は野暮かな」

 聞くまでもないとばかりに笑う篤弘を、武流はただ黙って見返した。やはり答えるまでもないと思ったからだ。

 篤弘は、自分で言った通りにかなり慣れていて上手だった。その手も舌も動きも全てが簡単に快感へと繋がり、武流は息継ぎをする暇さえないくらい、篤弘の与えるそれをただ追っていればよかった。

 武流の望んでいたものは、これだったのだ。

 何も考えられなくなる、何もかも忘れられる。そんなものが、欲しかったのだ。

「これからも、こんなふうに会ってくれる?」

 篤弘は武流の脇に横になりながら言う。その口調は、真剣に言っているようにも軽い気持ちで言っているようにも聞こえた。

「俺は・・・忘れたいことがあるんだ。あんたとしてるときは忘れられた、そんな理由でもいいのか?」

「もちろん。オレだって一番欲しいのは体だからね。お互いさま」

 笑顔を崩さず篤弘は少し体を起こして武流の頬に軽くキスする。そしてまた上向けになり煙草を引き寄せてふかし始めるのを、武流はぼんやりと眺めた。

 大分冷えてきた武流の頭を、ふとよぎる。

 互いに本気ではないとわかっているなら、それは違うだろうか。相手をただ利用しているのと。それとも、同じだろうか。自分を想ってくれている人を好きでもないのに抱くことと。

「・・・・・・」

 次第に浮かび上がろうとする姿を、武流は頭を振って追い払った。もう、考えないと決めたのだ。

 武流は体を起こして、篤弘が咥えていた煙草をその口から奪った。

「ん? 武流くんも吸いたいの?」

 取り戻そうとせず軽く笑って言う篤弘に、武流は煙草を右手に持ったままで口付けた。篤弘はすぐに髪に手を差し込んでそれに応えだす。

 それだけで人の思考を奪う篤弘のキスに、また頭が霞みだす前に武流は右手で煙草の火を揉み消した。それは熱と痛みをもたらしたが、しかし武流は握りしめた手を開かなかった。



 それは快感でも、痛みでも、構わないのだ。

 なんでも、誰でも、いいのだ。



 忘れる為に、何も考えられなくなる為になら。



 そして、忘れることに対する罪悪感も、忘れる為の手段に対する躊躇も。

 篤弘の手や口の動きにあわせて、武流の中から少しずつ薄れてなくなっていった。



 何もかもが、消えていった。





NEXT→


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次回の楽太サイドは、特にイベントもないので、

「楽太、そのただれた日常」くらいで。

篤弘さん、使い回し。ちなみに、こんな人→

#Zero 4





 もう二度と触れられなくても、

 もう二度と、抱けなくても。

 それでも、目も耳も指も、何もかもが憶えている。

 決して、忘れはしない。





「センセイ、どっか悪いとこあったら直してよ」

 楽太は射のポーズをとって少しうしろに立つ武流を振り返った。

「・・・もう少し肩を」

「言葉だけじゃわかんないよ。こっち来て教えて」

 距離を保ったまま説明しようとする武流を楽太は笑顔で手招きした。

 武流は最近あまり自分を見なくなった、ように楽太には思える。授業で当てられたときも宿題を出しにいったときも、自然を装ってはいるが目を合わせようとしないのだ。

 自分のことを忘れてしまうのは、許せない。

 苦しみでも苛立ちでも憎しみでも、なんでもいいから楽太は自分に向けて欲しかった。好意を向けられないなら、その視界に入れないよりは、そのほうがよっぽどましだから。

 だから、楽太はわざと武流の目に入るように行動するようになった。今も、側に来させる為にわざと少し型を崩して構えたのだ。他の生徒もいるから断るなんて事が出来ないのは計算のうち。

 そして予想通り武流は近付いてきて楽太の肩に手を添えた。

「肩を張って、背をもう少し伸ばして・・・」

 武流は言葉で説明しながら楽太の背、腕、手に触れていった。

 こうして密着すると、武流からは以前はしなかった煙草の匂いが微かにする。武流が煙草を始めたのは自分のことを忘れる為なのか、忘れられないからなのか、それを思うと楽太は堪らなくいい気分になった。

 そして、服越しに感じる指や、すぐ近くで聞こえる声や、寄り添うように触れてくる体。

「そのまま、弾くように指を離して」

「こう?」

 言われた通りに楽太が手を離すと、矢は的の端のほうにささった。

 すると武流はすぐに体を離して、顧問の先生らしく楽太に数言アドバイスをしてから他の生徒に呼ばれるままそっちに向かっていった。

 すぐ側にあった気配が消えて楽太は、しかしそれには気を取られない。楽太は部長に断ると足早に弓道場を出ていった。一番近くにあるトイレに入ると他に誰もいないのを確かめてから個室に入る。

 それから息を整える暇もなく、楽太はもう僅かに反応を示している自身を取り出した。

 そして、思い出す。

 指や手や腕や背中に触れた、体。

 煙草の香りに交じった、懐かしい匂いや、気配。

 耳元で聞こえた、低い声。

「・・・っ、はぁ」

 昔はいつでも手に入った、今はもう決して得られないそれらを思うと、楽太はたまらなく興奮した。

「ん、・・・ぁ」

 手を動かしながら、思い浮かべる。

 指使いや舌使い、もらす吐息や声、その熱さ。

「う・・・んっ」

 際限なく思い出されるそれらに、楽太の体はどうしようもなく昂ぶるのだ。

 楽太は目を閉じて、ただひたすらに自分の想像に溺れていった。





「ごめんな、突然」

「ううん、いつでも来てくれていいよ」

 そんなセリフを言うから自分にいいように利用されるんだと、楽太は他人事のように思った。

 楽太はあのあとどうしても熱が収まらなくて、こうして里美の家に来たのだ。彼女の両親は共働きで夜遅くまで帰ってこない。だから、こういうときは本当に都合がよかった。

「・・・なんか、急に会いたくなってさ。明日になれば学校で会えるのに」

「そう言われると嬉しいな・・・」

 照れたように言う楽太に、里美は顔を赤くして俯いた。未だに里美は楽太のストレートな言葉に弱いのだ。もちろん楽太もそれをわかって使っている。

「・・・石井君、私のこと・・・好き?」

「うん、好きだよ」

 おずおずと問い掛ける里美に、楽太ははにかみ笑いを浮かべながら手を伸ばした。そして嬉しそうに笑う里美をそっとうしろに押し倒しながら、口付ける。

 唇なんて、目を閉じてしまえばその柔らかさは誰のだって変わりはない。口内の熱さだって、同じだ。

 次第に深く口付けながら、楽太は里美の体をなぞっていく。

 体つきが丸く柔らかいのは女だから仕方がない。しかし年の割に少々幼い里美の体は小柄で、それよりは同じ女でも伊織のほうが大人な分しっかりしている。

 それに里美は茶髪だが、伊織はロングヘアーではあるが黒髪だ。

 その点でも、楽太は最近里美よりも伊織とセックスするほうが好きだった。しかし伊織とは付き合っているわけではないし相手が先生という立場なのでそう気軽に訪ねられない。

 だから大抵の場合、楽太は手軽に抱ける里美を選んでいる。好きだから、そう見せながら楽太はいつも里美の体を使わせてもらっているのだ。

「もう、いい?」

「・・・うん」

 里美は恥ずかしそうに、しかしどこか嬉しそうに楽太を見上げている。だが楽太はそんな里美を、その中に入ってしまうともう目を閉じて見ようとはしなかった。

 楽太は体を動かしながら、目も耳も口も閉ざす。

 そうすれば、里美の顔も体も声も存在も消えて、楽太にはただ熱と快感だけが残る。楽太が見ているのは、聞こえるのは、呼ぶのは、里美でも他の誰でもないたった一人になるのだ。

「・・・・・・っ」

 楽太は吐息すらも殺しながら、ふと思った。

 これが伊織相手だったら呼べるのに、と。



 楽太が抱きたいのは、他の誰でもない。

 楽太が里美や伊織を通して抱いているのは、

 見ている姿は触れている体は聞いている声は呼んでいる名は、



 楽太は里美に聞こえない程度の小さな声で、呟いた。



「・・・センセイ」





 もう二度と触れられなくても、

 もう二度と、抱けなくても。



 それでも、これからもずっと、抱きたいのは一人だけ。

 抱くのも、一人だけ。



 決して、忘れはしない。





→NEXT


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次回の武流サイドは、「そろそろいろいろ限界です」ってかんじ。