#Zero 5





 昔は、その姿を見るのが好きだった。

 明るい笑顔や声、

 それが自分に向けられるのが嬉しかった。

 好き、だった―。





「あっと、いけね、煙草切れちまった」

 篤弘の家から車で送ってもらって、ちょうど駐車場に着いたときに篤弘が煙草ケースを振って、しまったといったかんじで呟いた。

「武流、今ある?」

「部屋に戻れば」

 武流が思い出しながら答えると、篤弘はほっとしたように息を吐いた。篤弘は、ヘビースモーカーなのだ。

「一本・・・いや数本貰ってもいい?」

 コンビニで買うまでの繋ぎとして、と言って篤弘はいつもの人の良さそうな笑顔を浮かべる。

「いいよ。取ってくるけど、ついでに・・・あがってくか?」

「いいの?」

「・・・いいよ」

 武流が言って車を降りると、篤弘は少し驚いた顔をし、それから僅かに嬉しそうに笑った。

「ちょっとは、オレに心開いてくれたって思っていいのかな?」

「・・・・・・」

 武流はそれには答えずアパートの階段を昇り始めたので、篤弘も何も言わずあとを追った。

 元々銘柄にこだわっていなかった武流は、いつの間にか篤弘と同じ煙草を吸うようになっていた。それほど、武流は一ヶ月ほど前に知り合ってから篤弘と頻繁に会うようになっていたのだ。

 恋愛感情を持っているかと聞かれれば答えは否だが、それでも武流は篤弘と過ごす時間が好きだった。始めのうちこそ会えばセックスするだけだったが、最近はただ話したりする時間も増えてきて、武流はそれだけでも充分自分の心が安らぐのを感じるのだ。

 例えそれが篤弘といるときだけの一時的なものでも、いや、だからこそ武流は少しでも長く篤弘といたかった。

 心を開くとかとは全く違う理由なのだ。やはり利用しているだけなのかもしれないと武流は思ったが、しかしおそらくそれを許してくれているのだろう篤弘に、今は甘えていたかった。

 武流は部屋に通し、まずは煙草を渡してやる。

「お、サンキュー。助かった」

 篤弘はさっそく嬉しそうに煙草をふかし始める。武流は客を放っておくのもどうかと思ったが、篤弘に借りた服を着たままにしておくのも落ち着かなかったので着替えようと寝室に向かった。

 篤弘とはほとんど体格が同じなので、借りた服は裾が足りなかったりすることはない。脱いだそれをとりあえずベッドに置くと、ふと部屋の片隅に目がいく。

 いつの間にか置いていくようになった着替え。それから、歯ブラシやゲーム。

 見るたびに、なんとかしないといけないと思っているのだが、しかし武流はどうにも出来ずにいた。

「・・・捨てる・・・わけにもいかないよな」

 それでも、返すのなら個人的に会わなければならないので、それも躊躇われる。それとも、もしかしてこれは、未練なのだろうか・・・?

「・・・・・・・・・」

「どうしたの? そんな格好で突っ立って」

 突然背後から抱きすくめられて、武流はハッと我に返った。考えないようにしようと思っていても、いつもこんなふうに思考を奪われてしまうのだ。そんな自分が嫌で、武流はそこから視線を逸らした。

「・・・別に」

「そう?」

 篤弘は武流が見ていた辺りに目を遣って、もしかしたら何か感付いたかもしれないが、しかし追求しようとはしなかった。

「というか、寒くない? シャツ一枚で」

 軽い調子で言って篤弘は武流を抱きしめる腕の力を強める。その言葉に武流は始めて自分の体が冷えていることに気付き、そして篤弘の体のあたたかさが、心地よかった。

「それとも、もしかして、誘ってる?」

 篤弘の口調は変わらず軽かったが、しかしそれが自分の為であることを武流は知っている。なんでもない行為なのだと、武流の気を軽くしてくれているのだ。

 武流は体の向きを変えると、篤弘の首に手をまわしキスをした。もう馴染んだその感触を味わいながら、ふと部屋の片隅が武流の目に入る。しかしすぐにそこから目を逸らすと、武流は篤弘との行為に没頭していった。

 捨てられないのなら返せないのなら、忘れてしまえばいいのだ。一瞬だけ、そう思いながら。





 篤弘を玄関まで見送ったあとベッドを整えていると、不意にチャイムが鳴った。そう時間も経っていなかったので篤弘が忘れ物か何かして戻ってきたのだと思って、武流は相手を確かめることもなくドアを開けた。

「どうした・・・・・・っ」

「・・・誰だと思ったの?」

 武流は目の前に現われた人物を見て、思わず息を飲んだ。

 口を歪ませるように笑顔をつくって、しかし目はやはり笑っていない。武流を見て揶揄うように詰るように口を開いたのは、楽太だった。

「・・・お前・・・どうして」

 武流は驚きとそれから次第に沸いてくる息詰まり感から、掠れた声でなんとかそう問う。しかし楽太はそれには答えず、動きをとめた武流ごと押し入るように、ドアを閉めた。

 その音に、武流は反射的に楽太から目を背ける。こんなふうに近距離で二人きりになるなんて、近頃は全くなかった。

 武流が楽太を避けていたからだが、しかし楽太がその距離を広げることを許そうとしていないことを武流は同時に感じ取っていた。

「センセイこそ、何してたの?」

 楽太が低い声でそう聞いてきたが、武流はとても楽太と会話する気にはなれない。ただはやく自分の前から姿を消して欲しかった。

「・・・帰れ」

 武流は短く言って、ドアノブに手を掛けようとした。楽太に触れてしまうだろうが、それでもこのまま同じ空間にいるよりはましだと思ったのだ。

 しかし、武流の手がドアノブに触れる前に、楽太の手が武流の胸元を掴む。そして力任せにその手を引いた。

 その勢いで弾け飛んだボタンが床と立てた音に、楽太の抑揚のない声が続く。

「あの男には、許したんだ。オレは、駄目なのに」

「・・・なんの、ことだ・・・」

 武流は楽太が篤弘のことを知るわけないと思って、なんとか否定のセリフを口にする。しかし、シャツの合間から覗く武流の肌には明らかな情事の跡が見え、誰かとそういう関係にあることは隠しようがなかった。

 それを知った楽太はどう思ったのだろう、などと武流の頭は考えたくもないのに思い巡らせ始める。

「・・・センセイ、オレね」

 それでも外見上はいつも通りの無表情を保っているように見える武流を、楽太はしばらく無言で見つめていたが、ふと口を開いた。

「どうしてここにいるかっていうとね、さっきまで北川先生のとこにいたんだ」

 突然話を変えたように思える楽太に、武流は思わず目を向けた。その顔には、またあの笑顔が戻っている。

「それでね、センセイと、同じことしてたんだよ。セックス、してたんだ」

 楽太はなんでもないことのように告げた。その姿は、里美のことを便利だと言ったあのときと重なる。

「・・・まさか」

「本当だよ。まあ、信じられないかもしれないけど。でも、ホント。北川先生てね、身持ち堅そうに見えるけど、結構そんなことないんだよ。今日で三度目くらいだもん、オレの相手してくれたの。あ、もちろん、ちゃんと柄杜にはばれないようにやってるよ。面倒なことにはなりたくないからさ」

 淡々と、しかし笑顔は崩さず語る楽太を、武流はもう驚きもせずただどこか麻痺したように見ていた。

 武流は、楽太の笑顔が好きだった。明るく真っ直ぐな笑顔が自分に向けられること、それが嬉しかった。

 だが、今の楽太の笑顔は、無機質でなんの感情も見えない。ただ口元を緩ませているだけだ。

 武流は、これは誰なのだろうと思った。

 こんな人は知らない。こんなふうに笑う人は、知らない。

「ねえ、わかってる? なんでオレがこんなことしてるか」

 笑って尚も続ける楽太を見ても、武流の胸はもう痛まなかった。その姿に、もう昔の楽太は思い出されない。

「センセイのせいだよ。センセイが・・・」

 楽太のセリフを、しかし武流はもう聞こうとはせずに、早足で寝室へと向かった。そこにあるのは、今迄 捨てられなかった返せなかったもの。これは、最後の痕跡だ。武流が楽太を、愛していたことの。

 武流はそれをなんの躊躇もなく手にすると、楽太のところに戻った。そして押し付けるようにその手に渡す。

「・・・俺には、関係ない」

 武流の口から自然に言葉が出た。

「お前が何を考えてようと、誰と何をしようと、誰を憎んでいようと傷つけてようと。俺には、関係ないよ」

 傷付けた自覚はある。恨まれても仕方ないとも思う。

 それでも武流は、ハッキリと断言した。目の前に立っているのは、もう、自分とは関係のない人間なのだと。

 だって、武流が愛した楽太は、もうどこにもいないのだから。

「お前なんて、知らない」

 ひどく冷静な声で告げた武流は、その内で安堵すらしていた。



 その姿を見るのが好きだった。

 明るい笑顔や声、それが自分に向けられるのが、嬉しかった。

 だがもう見れない。そんな楽太はもうどこにもいない。



 だとしたら、それは死人も同然だ。この世には存在しない。

 そんな相手に、いつまで苦しめられなければならないのだろう。どうして苛まれなければならないのだろう。

 もう、そんな感情は、いらないのだ。



 もう、そうするべき相手は、どこにもいないのだから――。





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次は、楽太が武流の部屋に来た辺りからかぶりつつ、

「ブロークンハート(笑)楽太」なかんじで。

しかし武流、このまま普通に篤弘とくっついたらどうしよ・・・