並盛中学の校舎は、全体的に静まり返っていた。休日だから、ではなく逆に授業中だからだ。
朝9時過ぎ、ちょうど2時間目の授業が行われている時間。そんな校舎の中を、歩く一人の青年がいた。
明らかにこの中学の関係者とは思えない、金髪白人のその男は、しかし慣れた様子で校内を歩いていく。
青年の名は、ディーノ。イタリアマフィア、キャバッローネのボスである彼が、何故こんなところにいるかというと、かつて家庭教師をしたことがある雲雀恭弥に会う為だった。
ちなみに、全くの部外者であるディーノが堂々と校内を歩けるのも、雲雀と誼があるおかげだ。なんせ雲雀は、校長をはじめとしたこの中学を完全に支配下に置いている。
とはいえ、部下を連れていないディーノは、すでに一度階段から転がり落ちていて、障害が何もなかったわけでもないのだが。
ともかく、ディーノは雲雀に会う為に、この学校の応接室に向かっていた。今は授業中なのだが、常に自由な雲雀は、どこにいるかわかったものではない。だからディーノは、いつも雲雀の根城である応接室にまず向かうことにしていたのだ。
しかして、いつものようにノックもせず開けた扉の先に、雲雀はいた。
「よう恭弥、元気してっか?」
ディーノが陽気に声を掛ければ、黒革の高価そうなソファに身を預けている雲雀は、不躾な来訪者を一瞥し軽く溜め息をつく。
「・・・相変わらず、前触れない人だね」
「あれ、もしかしてオレからの連絡待ってたわけ?」
冗談めかして言ってみたが、雲雀に軽く無視された。そっちこそ相変わらずノリが悪い、なんて思いつつディーノはゆっくり雲雀に近付く。
「・・・何か用?」
「ああ、実はなぁ」
雲雀が出席簿のようなものをテーブルに放りつつ聞いてくるので、どうやら相手してくれるらしいと判断して、ディーノはその隣に腰を下ろした。
二人掛けのソファだが、群れるのが嫌いな雲雀は、この近距離を初めの頃は嫌っていたようだ。しかしそのうちに、慣れたのか特に何も言わなくなって、ディーノも益々遠慮なくなった。
そしてディーノは、雲雀の視線がちゃんと向けられるのを待ってから、自分を指さす。
「今日、オレの誕生日なんだよ」
「・・・・・・」
雲雀の眉が、僅かに動いた。どうやら全く興味がないわけではないようだ。
「知らないと思って、一応教えとこうと思ってな。あとで文句言われたくないし」
「・・・文句なんて言わないけど」
そんなふうに思われているなんて遺憾だ、と言いたげに呟いてから、雲雀はディーノに向かってにやりと笑う。
「でも、そんなこと言いにわざわざイタリアから来たの? あなたも暇人だね」
「はは、まあな」
なんとなく肯定しておいたが、別にディーノは暇なわけではない。
むしろ、ここに来る為にどれだけ苦労したか。何せイタリアと日本は、飛行機で片道12時間の距離にあるのだ。
マフィアのボスを張っているディーノの、自分の自由に出来る時間は決して多くない。だが、せっかくの誕生日だしと、多少の無理をして日本に来たのだ。雲雀に会いに来たのだ。
そんなことを、雲雀に教えるつもりはないが。伝えたって、素直に喜んでくれる雲雀ではないだろう。
ディーノは話題を変えて、雲雀に揶揄うような口調で言った。
「でも、これでしばらくは、おまえとは8歳差だな。悔しいか?」
「・・・一歳変わることになんの意味があるの。年の差なんて今さらじゃない」
だが雲雀は、言葉通り全く悔しそうではなく言い返してくる。それどころか、可愛げなく不遜に言い放った。
「それに、あなたを年上だなんて、思ったことないよ」
「・・・おまえなー」
そんな気はしていたが、しかしはっきり言わなくてもいいだろうと、ディーノはがっくりする。しかも、こんな日に。
「今日誕生日のオレに向かって、その言い方はねーだろ。いつもより優しくしてくれたって、バチ当たんねーと思うぜ?」
イタリアではどちらかの誕生日の日は、恋人同士はそれはもう熱々ラブラブに過ごすのだ。そう、ディーノと雲雀は、一応そういう関係だったりする。全くそんな雰囲気は窺えないが。
だから、誕生日くらいはと期待して、わざわざ日本までやってきた、というのもあったりする。
そんなディーノの僅かな期待を、しかし雲雀はあっさり裏切ってくれる。
「まさか、本気で期待してないよね?」
「・・・・・・」
はー、と溜め息つきつつ、ディーノは背凭れにぼすっと脱力した体を預けた。確かに、この雲雀相手に、本気で期待してはいなかったが。だが、もしかして少しくらいは、とちょびっとは思っていたのだ。
なのに雲雀は、さらに追い打ちを掛けるように、嘲笑うように言う。
「それがわかりきってるのに、わざわざここに来るなんて・・・あなたって相変わらず、被虐趣味のある人だね」
「人聞き悪いこと言うな!」
ディーノは思わず体を起こした。そんなふうに思われてるなんて、冗談じゃない。
「オレの武器は鞭だって、忘れたのか?」
だからといって別にSなわけではないが、少なくともMでもない。そう主張したのだが、雲雀は依然として余裕の笑みを浮かべたまま言い返してきた。
「その鞭、自分にぶつけたこと、何度ある?」
「ぐっ・・・」
それを言われると、非常に困る。何度と聞かれてももう思い出せないほど、ディーノの鞭は自分自身を打ちのめしてきていた。
「ほら、やっぱり」
「・・・・・・べ、別に、わざと当ててんじゃねーよ!」
きっぱり言ってから、よく考えたら胸張って言えることではないと、ディーノは気付く。これはこれで随分と情けない話だ。
ディーノはつい深く溜め息をついた。鞭のことはおいとくにしても、一体さっきからの会話はなんなんだろう、今日は楽しい自分の誕生日のはずなのに。
「・・・あのさー、恭弥。本当に何もないわけ?」
拗ねたくなる心境で、ディーノは睨むと言うにはきつさの足りない視線を雲雀に向けた。
「別に、特別なこととか、期待してるわけじゃないんだぜ? たださー、お誕生日おめでとうとか、それくらいの言葉とかさー・・・」
言いながら本気で拗ねたくなってきたディーノを、雲雀は感情の読めない黒々した瞳で見据えてから。唐突に、切り出してきた。
「イタリア語で、なんていうわけ?」
「・・・・・・へ?」
何が、と一瞬呆けてしまったディーノは、慌てて頭を働かせる。
「えーと、誕生日おめでとうをイタリア語で、ってこと・・・だよな?」
つまり、雲雀は言ってくれるつもりなのだろうか。しかも、ディーノの母国語であるイタリア語で。
ディーノの機嫌があっさり浮上した。
そして、せっかくだからと、ちょっとした悪だくみを思い付く。
「じゃー、教えてやるよ。Ti amo って言うんだぜ!」
さー言ってくれ!とディーノは期待でニコニコ笑いながら雲雀を見た。
対する雲雀は、ゆっくりと口を開いて、ディーノが教えた言葉を口にするかと思えば。
「あなた、本当に愚かだね。僕が引っ掛かるとでも?」
「・・・・・・・・・」
心底呆れた口調で言われて、ディーノは目を見張り、それからズルズルと今まで以上に深くソファにのめり込んだ。
そう、「Ti amo」は「誕生日おめでとう」なんかではない。ずばり「愛しています」という、イタリア人の恋人同士には不可欠な言葉だ。
おそらくイタリア語はさっぱりだろう雲雀に、恋人同士っぽいセリフの一つでも言わせてみせようと企んだわけだったのだが。何故か見抜かれてしまい、失敗してしまったようだ。
それどころか、どことなく冷たい雲雀の眼差し。さっきから呆れられたり馬鹿にされたり、いつもと同じと言えば同じなのだが、やはり悲しくなってくる。
ディーノはいじけるように、雲雀に心持ち背を向けた。一体なんの為にわざわざ日本にやって来たのだろうと思う。思うと、こうやっていじけてるのも勿体ない気もしてくる。
やっぱりこうやってそっぽ向いてても仕方ないと、早くも考え直したディーノの、振り返り様に。雲雀の流暢な言葉が、耳に入ってきた。
「Buon Compleanno」
「・・・・・・・・・へ?」
一瞬ディーノは、雲雀が何を言ったのか理解出来なかった。だって、雲雀の口からまさかそんな言葉が出てくるだなんて思えない。
だが、雲雀は確かに言った。イタリア語で、誕生日おめでとう、と。
目を丸くするディーノに、雲雀はゆっくり距離を詰めてきながら、切れ長の瞳を細めて笑う。
「今日がなんの日かくらい、僕が知らないとでも?」
「・・・・・・・・・」
驚きのあまり未だに言葉も返せずただ見返すディーノに、本当に馬鹿な人、なんて笑いながら雲雀はキスしてきた。
ディーノはおかげで余計に固まるが、雲雀は気にせずしっかりと唇を合わせてくる。
そうなるとディーノも、疑問を解決するのはあとにして、取り敢えず雲雀との久しぶりのキスを楽しむほうへ気持ちが傾いた。
雲雀の手がディーノの頬から耳へ髪へと這うように動き、それに伴ってキスも次第に深さ激しさを増していく。
勿論ディーノも負けていられず、雲雀の触れ心地のいい黒髪に指を通しながら、積極的に舌を絡ませていった。
中学の校内には全く相応しくない、しかし片方が誕生日の恋人同士にはとても相応しい、熱烈なキスもしばらくして一先ず終わる。
はぁ、と熱い息を吐きながら、ディーノは半分もうどうでもよくなりながらも一応尋ねてみた。
「・・・・・・なんで、Buon Compleanno って・・・」
雲雀がイタリア語を知っていたのも不思議だし、それを言ってくれるのも意外だし。そもそも、ディーノの誕生日を知っていたこと自体が驚きだった。
これは、自惚れていいのだろうか?
「なあ、恭弥」
「ところで、いつまで日本にいられるの?」
「・・・へ?」
突然の問いに、虚を突かれたディーノは、質問していたのは自分のほうだったことをうっかり忘れてしまう。素直に答えを返そうと、イタリア時間のままにしてある腕時計を見た。
「えーと・・・」
今夜は7時からキャバッローネ内での誕生パーティがある。飛行機の時間も考えると、今この時計は夜中2時になろうとしているから、つまり・・・。
「あと4時間くらい・・・か・・・?」
たぶん、それくらいだと思う。帰りの飛行機の時間は見ていないし、チケットは部下が持っているし、正確なことはわからないが。
いざとなれば、今日のパーティはごく内々のものだから、少々遅れても平気だろう。なんで遅れたんだ、なんて聞かれたら困り果ててしまうが。
「うん、そんなところだ」
「・・・そう」
雲雀は小さく頷いて、ディーノを黒革のソファへと完全に押し倒してしまってから、微笑を浮かべて言った。
「じゃあ、それまで・・・たっぷり、可愛がってあげるよ」
「・・・・・・・・・」
ディーノは思わず目をしばたたかせた。いつも物騒な表現ばかりする雲雀が、可愛がる、なんて言うとは。
素直に喜ぶより、まず驚いてそれからどうかしてしまったのか心配にすらなってしまうのが、悲しいところだ。
唖然としたように見上げるディーノを、雲雀は薄く笑ったまま見下ろす。
「あなたが言ったんじゃない。誕生日くらいは優しくして欲しい、って」
「・・・・・・」
確かにそんなことを言ったが、それをそのまま実行してくれるような雲雀ではない、はずだ。
ディーノがまだ戸惑っていると、雲雀は少し不快そうに眉をしかめた。
「・・・別に、嬉しくないみたいだね」
「・・・・・・いやっ!!」
びっくりはしたが、嬉しくないわけはない。じゃあどうして前半はいつも通り意地悪だったんだと多少思うが、そんなこともこの際どうでもよく思えるほど。
「嬉しい、嬉しいって! マジ嬉しい!!」
ディーノは慌てて、意気込んで言ってから、その勢いのまま上体を起こして雲雀に抱き付いた。意外ではあったが、だからこそ、本当に嬉しいのだ。
雲雀をぎゅうと抱きしめ、その黒髪を撫でながら、ディーノは素直に自分の思いを口にする。
「来てよかった。恭弥、愛してるぜ」
「・・・・・・相変わらず、恥ずかしい人だね」
少し呆れたような雲雀の声。愛している人に愛していると言うのは、イタリア人であるディーノにとっては当然のことだから、その反応は面白くない。
「恥ずかしいって、なんだよ」
とはいえ、僕も愛してるよ、なんて言い返してくる雲雀なんて想像も付かないから、妥当な反応にも思えるが。それでも少しばかり口を突き出したくなるディーノだ。
「・・・そういえば、さっき教えてくれたよね」
「へ?」
そんなディーノに、何やら雲雀が言ってくるが、なんのことやらわからない。首を捻るディーノを再びソファに押し付けつつ、真上から覗き込んできた雲雀は、綺麗に笑って言った。
「Ti amo...? 」
「・・・・・・・・・」
ディーノは今までにないくらい目を見開く。それから、急速に熱を持ち始めた顔を、慌てて両手で覆った。
「お、おま、え・・・ほんとに、どうしたんだよ・・・・・・」
雲雀の口からそんな甘ったるい言葉が出てくるなんて、思ってもなかったことで。嬉しい、というよりも正直、どうしていいかわからない思いのほうが強かった。
「変な人だね。自分は散々言っておいて」
「そ、そりゃあ、だって、オレは・・・でも、おまえ・・・」
まともに言葉も継げない。だって、あの、雲雀が。誰にだって想像付かないだろう。言われたら誰だってこうなってしまうだろう。いや、雲雀が他の誰かにあんなこと言うなんて、考えたくもないが。
混乱するディーノの頭をとりとめもない考えがよぎっていく。
そんなディーノの両手を掴んで、顔から引き剥がしつつ、雲雀は対照的に平然とした様子で言った。
「たまには、こういうのも、いいんじゃない?」
「・・・・・・」
たまにはというのは、ディーノの誕生日だから、ということだろうか。それが雲雀にとって特別の理由になるのなら、こんなに嬉しいことはない。生まれてきてよかった、ディーノはそんなふうにすら思ってしまった。
「嬉しい?」
「・・・そりゃあ」
尋ねてきたのは、雲雀なのに。答えがわかりきっているからだろうか、ディーノの返事は雲雀の唇に封じ込められてしまった。
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