Words of Love



 正一は日本のミルフィオーレ支部、メローネ基地に最高責任者として配属されることになり、その設計から任せられた。
 その基地建設にかかわる技術者リストの中に、スパナの名前を見付けて、正一はドキリとする。
 相変わらず、二人の間にはなんのやり取りもなかった。もう、友達、ですらないのかもしれない。それは嫌だと思いながらも、何も出来ないまま日は過ぎていく。
 スパナはホワイトスペルの自分にガッカリしたかもしれない、そう思うと連絡を取りづらいのだ。それは、ほとんど言い訳に過ぎないと、正一は気付いていた。
 スパナの存在は、自分の弱みになりかねない。ミルフィオーレの全てを騙し尽くさなければならない正一にとっては、少しの誤算も許されなかった。何が命取りになるかわからない。だから、スパナへの自分の感情は、あとまわしにするしかなかった。
 やがて正一は、まだ建造中の基地へ向かうことになる。スパナもすでに基地に入っているのは確認済みだ。
 本部を遠く離れたからか、正一は少しだけ気が楽になった。互いの立場があるとはいえ、言葉を交わすくらいは平気なはずだ、自分を説き伏せるように正一は思う。スパナも、以前の関係に戻りたいと、思ってくれているのなら。
 正一は思い立って、空いた時間を見付けて、スパナの元へ向かった。
 こちらにきてもう数ヶ月経つスパナは、作業室の一つをすでに自分のものにして研究に打ち込んでいるらしい。正一が訪ねると、スパナはやっぱり工具を手にしていた。機械をいじるそのうしろ姿は、出会った頃と何も変わらないように見える。
「・・・スパナ」
 何を話せばいいのかどう切り出せばいいのか、わからないまま正一は言葉を掛けた。
 部品の組み立てに熱中していたスパナは、それでも一拍置いて、ゆっくりと顔を上げる。目が合うのも、すごく久しぶりだった。
 正一の心は期待と不安で波立つ。
「・・・正一」
「・・・っ!」
 そしてスパナが自分の名を呼んでくれるから、もしかして元に戻れるのだろうかと正一は思った。しかし、スパナは抑揚のない口調で続ける。
「何か用? モスカの試験データだったら、提出は明日のはずだったけど」
「・・・・・・・・・」
 事務的なセリフ、スパナの口から出たのは、澱みない日本語だった。ここが日本だからか、それとも日本人の正一に合わせているのか。
 正一には慣れた言語のはずなのに、互いに覚束なくても夢中で会話をした、英語が懐かしく思い出された。
「・・・少し、様子を見にきただけだよ。モスカには僕も、興味があるからね」
「そう」
 正一が冷静さを装って言葉を返せば、スパナは納得したように頷いてから、説明を始める。
 それから、正一はスパナとしばしば、技術的な話をするようになった。改めてスパナの才能を感じたり、自分のメカニック魂を刺激されたり。
 自然と会話は盛り上がり、でも、それだけだった。
 やり取りだけ見ると、昔と変わらない気がする。それでも、正一はスパナとの間に分厚い壁のようなものを感じた。踏み込めない、近付けない。
 技術者と技術者、それ以上の会話は一向に出来なかった。


 そして、作戦決行の日が近付いていた。
 正一はミルフィオーレを裏切り、ボンゴレへと寝返る。スパナとはこのままでは、敵同士となってしまうのだ。
 このまま再び離れてしまうのは嫌だが、まさか事情を話すわけにはいかない。せめて、スパナを戦いに巻き込みたくなかった。
 それだけでも伝えられないかと、正一は隙を見てスパナの部屋へ向かう。しかしどうやらまた研究室に篭っているらしく、自室にスパナの姿はなかった。
「・・・・・・・・・」
 それでも正一はそのまま、入り口のところで立ち尽くしてしまう。壁に掛けられている、額縁に視線を奪われてしまったのだ。
『酢花゜』
 そう、たった2文字が書かれた紙を、飾っている。
 その漢字は正一がスパナにねだられて、彼の名前を表現したものだった。スパナは正一の書いた文字を眺めて、それは嬉しそうにしていた。
 もう何年も前のそのときのことを、正一は今でもよく覚えている。スパナも、覚えてくれているのだろうか。
 その名前を、スパナは今も大事にしてくれている。正一のことは関係なく、ただ漢字が気に入っているだけかもしれない。そういえばスパナは、いつのまにか日本語がスッカリ喋れるようになっていた。
 正一がイタリア語を習得したのは、必要に迫られたせいだというのもあったが。これでスパナと彼の言語で話せる、そんな思いもあった。
 スパナもそんなふうに思ってくれたのだろうか。せっかく、イタリア語でも日本語でも、話せるようになったのに。
 ついそう考えてしまう正一は、頭を振って気分を変えた。今は、そんな自分の感傷などどうでもいいのだ。
「・・・正一?」
「スパナ!」
 相変わらず部屋に一歩入ったところで立ち尽くしていた正一は、うしろから聞こえた声に、慌てて体を動かした。
 障害物がなくなって自室に入っていったスパナは、きっと寝食をおろそかにして研究に打ち込んでいたのだろう、顔色が悪い。
 心配だけれど、気遣うセリフを正一はグッと呑み込んだ。
「スパナ・・・しばらく、この基地を離れていて欲しい」
「・・・・・・・・」
 スパナがさすがに不思議そうに正一に視線を向けてきた。唐突で無茶な頼みだとはわかっている。それでも正一は、言わずにはいられなかったのだ。これから何が起こるか、わかっているから。
「・・・無理だ。モスカの整備なんかがあるから、ここを離れられない」
「・・・・・・・・・」
 それはスパナの立場からは当然の、正しい答えだった。モスカはこの基地の貴重な戦力の一つで、その調整から制御から一手に任されているスパナだって当然必要な人材だ。
「でも・・・」
「・・・・・・・・・」
 それでも、スパナの身を危険に晒したくない、正一はどうにか説き伏せられないだろうかと頭を巡らせる。そんな正一を、スパナがジッと見つめてきた。
「・・・ウチが、いたら困る?」
「・・・え?」
 元々感情の読みづらいスパナの表情からは、やっぱり何も読み取れない。ただ、その瞳が真っ直ぐ自分を見据えている、それだけで正一はこんなときでもドキッとしてしまう自分を感じた。
 そしてスパナの口から、また問い掛けの言葉が出る。
「やっぱり、迷惑か?」
「・・・・・・・・・」
 もしかして、と正一は思った。スパナが連絡をくれなくなったのは、正一に気を遣ってくれていたからかもしれない。正一のホワイトスペルナンバー2の立場を思ってのことだったのかもしれない。
 スパナがどんな思いで問い掛けてきたのかはわからないが、正一の答えは決まっていた。
 迷惑なんかじゃない、いて欲しい。
 でも、それ以上に、スパナを今回のことに巻き込みたくなかった。たとえスパナを傷付けても、嫌われても。
「・・・そうだ。君がいると、困るんだ」
 正一は搾り出すように、そう言葉にした。ポーカーフェイスは、もうすっかり特技になってしまっている。
「・・・・・・そうか」
 スパナの表情は変わらず、やっぱりその心の内は読めなかった。小さく呟いたスパナは、クルリと踵を返すと、部屋を出ていく。
「でも、ウチは、どこにも行かない」
「・・・・・・・・・」
 そう断言して去っていくスパナのうしろ姿に、正一はさすがにもう一度繰り返すことは出来なかった。


 ついに作戦結構の日。メローネ基地へと、10年前のボンゴレ10代目たちが仕掛けてきた。
 司令官として冷静を装いながらも、正一は未練がましくスパナのことを考えていた。
 沢田綱吉たちとの戦いに、当然スパナのモスカも駆り出されることになる。いや、その命令を、正一が下すのだ。ミルフィオーレを欺く為には、全てにおいて躊躇は許されない。
 わかっていても、心配せずにはいられなかった。スパナは怪我していないだろうか、命の危険はないだろうか。
 自分とスパナの関係がもう修復不可能だろうと、それでもスパナには、生きていて欲しかった。それだけでいいと思えた。
 どこででもいい、これから先も、好きな研究にとことん打ち込んで欲しい。純粋に、それだけを。自分には、出来なかったから。
 そんな正一は、まさかスパナがミルフィオーレを裏切って、ボンゴレにつくだなんて思ってもいなかった。さすがに少し動揺しながら、考えてみれば充分あり得ることだと思い直す。
 沢田綱吉の強さと能力に引かれたのか、それとも人柄に入れ込んだのか。彼には、身を委ねても構わないと思える、魅力がある。この時代のボンゴレ10代目と何度もやり取りをした正一は、それを知っていた。
 今の正一の表面上の立場からは、スパナは裏切り者の敵になってしまう。殺しても構わない、なんて命令することになって、すごく複雑な気分で怖かったけれど。同時に正一は、安堵していた。
 沢田綱吉なら、きっと味方になったスパナのことは守ってくれるだろう、そう信じられたのだ。
 そして、無事に全てが上手くいったら。晴れて正一もボンゴレ入り出来たら、スパナとは味方同時になれる。今度こそ、なんのしがらみも立場もなく、彼と相対することが出来る。
 いつまで経ってもスパナとのことを諦められない正一は、淡い期待を抱いた。


 計画は、一応成功したといえる。
 白蘭に自分の裏切りが読まれていたとは思わなかったが、それでも予定通りにボンゴレ側の戦力を整えることが出来た。先行きはまだ明るいとはいえないが、一つの山場を越えたのだ。
 そして希望通り綱吉たちに仲間として認めてもらえた正一同様、スパナもちゃっかりボンゴレ加入を果たした。
 10日の間に戦いに備えなければならず、やるべきことはたくさんある。そしてまずは装置を隠す為に、スパナと二人でメローネ基地の跡地へ残ることになった。
 無残にどこかへと飛ばされたメローネ基地がかつてあった場所、ぽっかりと開いた穴を見て正一は互いに無事で本当によかったと思う。
 二人とも無事で、こうやって今度こそ仲間として手を携えることが出来て、すぐ近くにいられて。それで充分恵まれていると思う一方で、でももっと、とも思ってしまう。
 かといって正一は、スパナに何を言っていいのかわからなかった。自分のしてきたことを思えば、何を言っても言い訳にしかならない気がする。
「・・・正一」
「えっ、あ、なんだい・・・?」
 一体どう接すればいいのか、答えの出せない正一へと、スパナから声を掛けてきた。白い装置を見上げながら腕を組む、スパナは技術者の顔をしている。
「それで、どうやってこの装置隠すんだ? やっぱり、埋めるのか?」
「ああ・・・うん、それが一番いいかな」
 正一も頭を切り替えながら、確かにまずはそれを第一に考えるべきだと思い直した。装置を隠す方法を話し合い、やはり埋めることにしてその手段を決めていく。技術的な話をして、淡々と作業をしていく。
 そうしながらも、やっぱり正一はしつこく考えてしまった。
 二人してボンゴレに組することになって、立場的には今までになく近付いたはずなのに。ロボット大会のときのように敵味方ではなく、ミルフィオーレのときのように立場を気にする必要もないのに。
 でも正一は、変わらずスパナとの間に目には見えない壁のようなものがある気がした。そしてきっとそれは、正一自身が作り出した距離なのだろうと思う。
 昔に比べて随分と捻くれてしまった正一と違って、スパナは昔のままに見えた。正一への、気持ちは変わってしまったかもしれないが、それでも。昔のように、なんでも言い合い認め合える、気の置けない友人に戻ることは、きっと可能なはずだ。
 なのに、負い目のような感情が、正一のじゃまをした。自分の立場ばっかり考え、自分の都合でスパナと距離をとり、全てを欺いていたこと。間違っていたとは思わないが、もっといい方法があったかもしれない。
 スパナに話すわけにはいかなかったし、今この状況は結果的に最善かもしれない。
 それでも、今までスパナに手を伸ばすのを躊躇し続けていたのに。しがらみがなくなった途端に、本当は・・・なんて、酷く都合がいいように思えた。
 昔のように戻りたいのなら、自分から踏み出さなければならない。その勇気がもてない自分を、情けなく思っても、正一はやっぱりどうしていいかわからなかった。
 話したいことだってたくさんあるのに、話さなければならないこともあるはずなのに。何を言っていいのか、どんなふうに切り出せばいいのかわからない。
 本当は、スパナに言いたいことは、本当には、たった一つなのに。
「・・・でも、驚いた」
「・・・・・・っえ?」
 自分の思考に沈んでいた正一は、耳に届いた声に、ハッと顔を上げた。
 スパナの呟きは唐突で、それが独り言なのか、それとも自分に対する言葉なのかわからない。そっと視線を向ければ、スパナはキーボードを叩いていた手をとめて、正一をジッと見ていた。
 真っ直ぐ向けられる視線に怯みそうになる正一へと、スパナが淡々と言葉を継いでいく。
「ウチがやったことが、ミルフィオーレを・・・正一を裏切ることになるなんて、思ってなかったから」
「・・・・・・・・・」
 どうして突然そんなことを言い出したのか、スパナの考えが全くわからなかった。正一は手探りをするように、スパナと言葉を交わしていく。
「・・・思ってなかったって・・・何も、考えなかったのかい?」
「うん・・・結果的にそういうわけでもなかったってことで、ホッとした」
「・・・・・・」
 裏切るつもりなんてなかった、裏切りではなくてよかった。それはつまり、スパナはいつでも正一の味方でいたいと思っている、そう言いたいのだろうか。
 勝手に自分に都合よく解釈しているだけのような気がして、正一は迷った。僕だってスパナを裏切るつもりはなかった、いつだって側にいたかった分かり合っていたかった、そう言いたい。その気持ちを、今さら伝えてスパナは受け入れてくれるだろうか、迷惑だと思われないだろうか。
 とことん臆病になってしまう正一が、口元を迷わせている間に、スパナがさらに語った。
「けど、裏切り者はここで殺す、とか言われたときはビックリした」
「・・・それを、僕が命じなければならなかったんだぞ?」
 あんまりスパナが淡々とした口調で言うから、正一はつい問い返す。自分の行動がどういう意味を持っていたのか、正一がどういう立場にあったのか、やっぱりスパナは全然わかっていなかったのかもしれないと思えてきた。
 そしてスパナは、首を傾げて聞き返してくる。答えなどわかりきっているはずの、問いを。
「・・・それ、嫌だったのか?」
「当たり前だろう!!」
 きっとボンゴレ10代目と一緒にいれば大丈夫だ、そう思っても、やっぱり「スパナを殺しても構わない」なんて言いたくなかった。
 思わず怒鳴るように返してから、正一はハッと口を押さえる。
 当たり前、だなんてスパナに思ってもらえる行動など、正一は一つもとっていなかった。自業自得で、なのにスパナにはわかってもらいたいなんて、調子がよ過ぎる。
 でも、それは紛れもない正一の本心だった。スパナを敵として追いたくなんてなかったし、逆にスパナが任務に忠実であったとしても、今頃基地と一緒にどこへ飛ばされていたと思えばゾッとする。
「だから・・・メローネ基地から君を遠ざけようと思ったのに・・・」
 ついポツリともらすように言えば、スパナが少し目を丸くした。
「そういう意味だったのか・・・正一、言葉が足りないと誤解を招くぞ?」
「・・・誤解されても、いいと思ったんだよ」
 この期に及んでは繕うことも出来ず、素直な気持ちが、正一の口から溢れる。
 やっぱり、スパナは誤解していた。正一にとって自分が、じゃまだと、思わせてしまったのだろう。そんな思いをさせても、それでもいいと思えるほど、正一はスパナが大事だった。危険な目になど合わせたくなかった。
「・・・・・・・・・」
 その思いを、今ならスパナに伝えられる。もう何に阻まれることもなく、今さらでも調子よくても独りよがりでも。それでもいいと、正一は思えた。
「・・・・・・スパナ」
 握り締めていた工具から手を離し、立ち上がるとスパナの前に立つ。こうしてスパナと向き合えるときを、正一はずっと待っていたのだ。
「・・・君には、言いたいことがたくさんある」
「・・・・・・・・・」
 見上げてくるスパナが、しかし短く切り捨ててくる。
「ウチは、ない」
「なっ!?」
 まさか聞いてもらえないほど、スパナを怒らせ呆れさせていたのかと、正一は途端に逃げ出したい気分になった。
 だが、スパナも膝からパソコンを下ろし、立ち上がる。そして、ほとんど同じ高さで、正一と瞳を合わせた。
「・・・正一が困るのかなって思ってメールやめたり会うのとかいろいろ我慢して、でもせめて側にいたいから基地から出ていくかって思ったり・・・」
「・・・えっ!?」
 やっぱり淡々とした口調で、しかしスパナはとても重要なことを言った気がする。正一が知りたかった、スパナの気持ち。
 なのにスパナは、正一の理解が追いついたかなど気にとめず、またアッサリと切り捨ててきた。
「したけど、それはもういいや」
「なっ!?」
 もういい、というのは今さら、ということだろうか。振りまわされるように、正一はスパナの発言を必死に噛み砕いて解釈していこうとした。
「・・・正一に言いたいのは、一個だけ」
 そんな正一に、しかし考えるまでもなく、スパナは答えをくれる。
 正一を見つめ、スパナはふにゃりと笑った。
「・・・アイシテル」
「・・・っ!!」
 ずっと昔と、変わらぬ言葉、変わらぬ笑顔。正一は考えるよりも先に、湧き上がる衝動に任せて、スパナを抱きしめていた。
 ずっと、その言葉が欲しかった、心を通じ合わせたかったのだ。
 距離をとったのは自分からで、なのに歩み寄ってきてくれたのはスパナからで。情けないと思うけれど、それ以上に嬉しかった。
 スパナが自分を見捨てず、ただ受け入れてくれる、こんなに嬉しいことはなかった。
「スパナ・・・」
 きつく抱きしめていけば、しっかりと抱き返してくれるスパナへ。正一はもう他に言葉を見付けられなかった。正一だって、スパナに本当に伝えたいことは、たった一つだけ。
「・・・ティアーモ」
 この言葉をまたスパナに向けられること、そしてスパナもこの言葉を待ってくれていたと、抱き合う腕からも感じられること、何もかもが嬉しかった。
「ティアーモ、スパナ・・・」
 正一は自然と、ギュッとスパナを強く抱きすくめる。すると、腕の中のスパナが、笑う気配がした。少し揶揄いを含んだ、声で。
「・・・うん、その変な発音だった」
「う、うるさいな!」
 そんなの自覚していたし、スパナだって人のことを言えた発音ではなかった。そう言い返したくなる正一の、耳元に流暢なイタリア語が聞こえてくる。
「Ti amo」
「・・・僕も・・・、愛してる」
 何故か母国語で言うのは妙に気恥ずかしかった。互いに顔を突き合わせていないから少しはマシだけど、と思う正一の髪をスパナがくしゃりとかきまぜてくる。
「わ、なんだ?」
 おかげでつい逃れるように少し身を引いた正一に、スパナは髪に絡めた指は離さないまま、実験成功したときのような笑顔を見せた。
「正一の髪、こうしてみたかった」
 スパナに正一の酷い癖毛を揶揄う、なんて目的はないように見える。ただ、触ってみたかった。そんな、ささやかな願望。
 告白し合ってから、もう何年も経つのに、こんなふうに近付くのは初めてなのだ。
「・・・僕も、したいこと、たくさんある」
 正一もスパナの髪にそっと触れてみながら、素直に言った。一緒に確かめたいアイデアも下らない話もたくさんある。今はこんな状況だけど、せっかく日本にいるのだから見せたいもの連れていきたいところもたくさんある。
 これから、どんな可能性だってあるのだ。泣きたいくらいの幸福感で、つい顔を綻ばせる正一に、スパナがボソリと呟くように言う。
「・・・正一、スケベ」
「なっ! そっ、そういうことってわけじゃ・・・っ!」
 ない、とも正一は言い切れなかった。スパナのことが好きなのだから、よこしまな願望だってある。けれど不純な気持ちばっかりじゃない、と主張したくなる正一の口を、しかしスパナが塞いできた。
 チュッと、軽く触れるだけのキスは、紛れもなく二人にとって初めての。キスまでスパナから、なのはちょっと情けない気がするけれど、でも正一はやっぱり嬉しかった。
「君こそ・・・じゃないか」
 そう言いながら、今度は正一からゆっくりと唇を合わせる。照れくさいようなくすぐったいような、こんな幸せな気持ちになれるなんて、少し前までは思ってもいなかった。
 勿論、苦い後悔も臆する気持ちも、まだその胸の内に消えずに残っている。そんな感情ごと、正一はだからこそ強く、スパナを抱きしめた。




 END
出会ってから9年(?)…付き合い始めてから7年(?)…ようやくキスまで辿りついた気の長〜い二人の話でした(笑)


(09.03.18up)