友達以上
なかなか興味深くて、なんて言いながら正一が持ってきた製品カタログを、頭を突き合わせて見ていたときだった。
「・・・レモン?」
ふと鼻を鳴らした正一が、そう呟く。スパナに心当たりはあって、咥えていた飴を、柄を掴んで口から取り出した。
「うん、レモン」
「イチゴ味じゃないんだ・・・めずらしいな」
赤ではなく黄色の飴を眺める正一に、スパナはそれを差し出しながらなんの気なしに言う。
「たまには。・・・食べるか?」
「・・・・・・・・・」
すると、何故か正一が飴からスパナに視線を移して、そのまま見つめてきた。見返したスパナは、さっきまでは考えもしなかったけど、正一との距離がとても近いことに今さら気付く。
眼鏡の奥の正一の瞳から、スパナはなんとなく目を逸らせなかった。レンズ越しだからか、それがなくても人の感情を読むのが苦手なスパナには、正一が何を考えているのかわからない。
そんな正一の眼鏡が、さらに近付いてきた。ぶつかる、と思った瞬間、違うものが思いがけない場所に触れてくる。
それは、キス、というやつじゃないだろうか。
少し目を丸くするスパナから、正一はすぐに慌てたように離れていった。
「・・・っご、ごめん・・・!」
「・・・・・・・・・なんで?」
スパナの問い掛けは、単純に正一がどうしてどういうつもりで、キス、と思われる行動を取ったのか知りたかっただけのものだったのだが。正一には、咎め責めるようなものに聞こえたのかもしれない。
「そ、それは・・・」
眼鏡を押し上げながら、正一は少しの間葛藤するような表情をした。それから、少しだけ佇まいを正して。ギュッと目を閉じながら、怒鳴るように言った。
「・・・す、好きなんだよ・・・君のことが!!」
「・・・・・・・・・」
それは、さっきのキスと合わせて、もしかしたら愛の告白というやつなのだろうか。どこか他人事のように、スパナはボンヤリと考えた。
正一は固く閉じていた瞳を開けて、眉をしかめたままチラリとスパナに視線を向けてくる。自分の反応を待っているのだと、ようやく気付いたスパナは、正直な気持ちを口にした。
「・・・ウチ、そういうの・・・よく、わからない」
「・・・っ!!」
その、瞬間。正一の顔が泣きそうに歪んだように、スパナには見えた。たとえば、時間を掛けて理論と実験を積み上げ完成させたものが、あっというまに壊れてしまったときのような。
スパナはとっさに、正一に何か言葉を掛けなければ、と思った。しかしそれより早く、正一は勢いよく立ち上がる。
「・・・もういい、わかった!!」
そう言い捨てて、駆けるように部屋を出ていく正一を、スパナはポカンと見送る。
正一が何をわかったのか、スパナには全くわからなかった。しかもその上どうして追い立てられるように帰っていってしまったのか、不思議に思って首を傾げる。
カタログを眺めていたのに、その続きはどうなったのだろうと、それも疑問だった。スパナはさらに首を傾げ、続きはまた今度正一が来たときでいいかと思いながら。
正一にせっかくあげようと思った、レモン味の飴を無造作に咥えた。
それから、しかし正一は一向にスパナのところに来なくなってしまった。忙しいらしい正一だし、研究で篭っているのかもしれないし、自身も機械相手に熱中しているし。スパナは初め、特に気にしていなかった。
ミニモスカの動きの調整をしていて、でもどうしてもどこかぎこちない。正一だったらどんなアドバイスをくれるだろう、そう考えてスパナはようやく気付いた。
そういえば、もう一ヶ月は正一に会っていない、ような気がする。
いつもなら、一週間に一度くらいは、様子見がてら正一がこの部屋を覗きにきていた気がした。スパナは部屋の入り口につい視線を向けたが、あの日以来、正一はそのドアを開けていない。カタログも、二人で眺めた最後のページが開きっぱなしになっていた。
スパナはそのページに折り目を付けてから、分厚いカタログを掴んで持ち上げる。ミニモスカについて何か意見でも貰って、ついでにこの続きを一緒に見よう。そう考えて、スパナは正一の研究所へと向かった。
スパナが正一の研究所に行くのはめったにないことで、正一がスパナの部屋を訪ねてくるほうがずっと多い。あんまり慣れない通路を歩いていると、途中でちょうど正一とバッタリ出会った。
「ちょうどよかった、正一」
これで迷う心配はないと、スパナはホッとする。そして、気まずそうな表情をしている正一にも気付かず、用件を切り出した。
「これ、続き見ようと思って。それから・・・」
「・・・どういう・・・つもりなんだい?」
低く、押し殺したような正一の声に、スパナは途中で言葉をとめる。俯き加減の、自分のほうを向いていない正一が、一体何を問い掛けてきたのかスパナにはよくわからなかった。
「・・・・・・何が?」
スパナがキョトンと首を傾げても、今度は正一は何も言わない。黙って俯く正一の表情も、スパナには読めない。
せめて眼鏡がなければ少しはわかり易くなるだろうか、なんとなく思い付いたスパナは、そのまますぐに実証してみようとした。
正一へと伸ばしていったスパナの左手が、しかし届く前に、振り払われる。
「やめてくれよ!!」
「・・・・・・正一?」
反対の手からカタログが落下して、ドサリと重そうな音がしたが、二人とも視線を向けることもなかった。
すぐには何が起こったのか把握出来ないスパナへと、正一が怒鳴るように張り上げた声で言葉をぶつけてくる。
「君は・・・無神経だ!!」
そして正一はあの日のように、スパナに背を向けて走り去っていった。
またしばらく呆然としたスパナは、ゆっくりとちょっと痛む左手を見つめる。それから、ようやく正一に振り払われた弾みでかカタログを落としてしまっていることに気付いた。
それを拾い上げて、正一の部屋に向かおうとしていた足を、自分の研究所の方向へと戻す。ノロノロと歩いて、辿りついた部屋で出迎えてくれたミニモスカに、そういえばアドバイス貰い損ねたと思いながらなんとなく抱き付いていった。
機械特有の馴染んだ温度と質感にホッとしながらも、スパナはついさっきの正一のことを思い出す。正一は結構感情にムラがあって、面白くないことがあるとよくものに当たったり喚き散らしたりしていた。それでも、スパナが正一に、あんなふうに怒鳴られたことは、今までに一度もなかったのだ。
よくわからないけど嫌われたのかな、と思ったスパナは、しかしそういえばと思い返す。この前会ったときは、好きだと、言われた。モスカに寄り掛かったまま、スパナはそのときのことも思い出していく。
あのとき、そういうのよくわからない、と正一に言ったのはスパナの本心だった。スパナはずっと、愛や恋なんて程遠いところで生きていたのだ。
人よりも、機械を相手にするほうがずっと多くて、そのほうが楽で幸せで。そういえば、正一はそんなスパナにめずらしく出来た友達だった。
友達、と言えるのかもよくわからない。スパナには今まで、友達なんて呼べる存在は、多分いなかったから。
でも、正一と過ごすのは、好きだった。波長が合う、とでも言うのだろうか。機械をいじっているとき、すぐそこに正一がいても、不思議とその存在がじゃまだとは思わなかった。正一からの助言はとても参考になったし、たまにしてくれるジャッポーネの話もとても興味深い。
確かにスパナは、正一のことが好きなようだった。とはいえそれは、正一が言ったのと同じ感情なのか、よくわからない。
そこでスパナの思考は、またついさっきの出来事に戻った。そういえば、正一を怒らせてしまった、もしかしたら嫌われてしまったかもしれないのだと。
考えれば考えるほど、深みに嵌っていくようで、単にグルグル堂々巡りをしているだけのような気もして、スパナは益々よくわからなくなっていった。
でも、じゃあ何か他のことを、という気にもなれない。ミニモスカに張り付いているというのに、さっぱり改良の続きをしようなんて思えなかった。
このままでは、いつまで経ってもミニモスカは完成しそうにない。わからないことをそのまま放置しておくのも落ち着かないし、とスパナはゆっくり立ち上がった。
今度は手ぶらで、どうにか辿りついた正一の研究室をスパナはそーっと覗き込んだ。床に座り込んで設計図のようなものを眺めている正一の背中が見える。
いつものように呼び掛けようとしていたはずのスパナは、しかしなかなか声を出すことが出来なかった。また、さっきのように怒らせてしまったらどうしようと、何故かそんなことが気に掛かる。
どうしよう、とただ正一の背中を眺めながら立ち尽くすスパナに、少しして正一のほうが気付いた。気配を感じたのか振り返った正一は、眼鏡の奥の瞳を丸くする。
「・・・スパナ!?」
「・・・・・・・・・」
ビクリと、スパナの体が意識せず揺れた。しかし正一は、心配していたような険しい表情にはならなかった。
どちらかといえば申し訳なさそうに、ゆっくり立ち上がって、言葉を詰まらせながらも呟く。
「その・・・さっきはごめん、手をはたいたのと・・・酷いこと、言った」
「・・・ううん」
首を横にプルプルと振りながら、いつも通りの正一だとスパナはちょっとホッとした。それから、疑問に思っていることを確かめる。
「正一・・・まだ、ウチのこと、好き?」
「っ・・・」
今度は正一が、ビクッと体を揺らした。チラリとスパナに視線を向けてきたと思ったら、また俯いて、呟くように小さな声で。
「・・・・・・好き、だよ」
「そう・・・」
どうやら嫌われてはいないようだと、スパナはまたホッとする。それから、なんだか嬉しい気もした。
でもそれが、正一に友情を感じているからなのか、それとは違う好意のせいなのか、やっぱりスパナにはよくわからない。
「・・・ウチ、やっぱりそういうの、よくわからない・・・」
「・・・・・・・・・」
正直に言えば、また正一が怒ったような傷付いたような表情になるから、スパナはすぐに付け足した。この前みたいに、正一が自分に背を向けてしまう前に。
「けど・・・」
「・・・・・・けど?」
控えめに視線を合わせてきた正一へと、スパナはどう言えばいいのだろうと考えて、結局ありのままの気持ちをそのまま言葉にした。
「けど・・・ウチは、正一と・・・一緒にいられなくなるのは・・・嫌」
口に出してみて、なんだか妙に子供っぽい我儘のような気がするとスパナは思う。こんなふうに、機械以外のことでねだるように何かを願うのは初めてかもしれないとも思った。
「スパナ・・・」
「・・・やっぱり、無神経か?」
正一がさっき、自分のどこを指して無神経と言ったのかもわかっていないスパナは、率直に尋ねる。
「・・・・・・・・・」
正一はしばらく、何か思案しているようだった。それとも、迷っているのか葛藤していたのかもしれない。相変わらずスパナは、正一の考えていることがよくわからないのだ。自分の感情すら、わからないことも多いのだ。
なんだか実験の結果が出るのを待つような気分で、スパナは正一の反応を待った。そしてようやく、正一が顔を上げる。
「それって・・・僕に、可能性はあるってことかい?」
「・・・・・・多分」
自分のことなのにその辺もハッキリ把握していないスパナが首を傾けて答えれば、正一はハァと溜め息をついた。少し、何かを吹っ切るように。
「・・・うん、いいよ・・・それでも、当面は」
頷きながら言って、正一はゆっくりとスパナへと歩み寄ってきた。そして、右手をスッと差し伸べてくる。
「つまり・・・友達からお願いします、ってことだね?」
「・・・・・・・・・」
その言葉の意味も正直よくわからないが、取り敢えず最低友達であるのなら、スパナに異論はなかった。
「・・・うん、よろしく」
スパナも手を差し出し握手の形を取れば、正一はギュッと力を篭めて、それからしばらく離してくれなくなる。どうしてだろうと不思議だが、振り払おうとは思わなかった。繋いだ手から伝わる正一の体温が、なんだかホッとする気もするし、逆にちょっと居心地悪い気がするような。
やっぱりスパナには、わからないことだらけだった。解けた謎もあるが、増えた謎もある。
でも、正一と一緒にいればそのうち全部わかるようになる気がすると、なんとなくスパナは思った。
END スパナは「無神経だ」と言われても仕方ないと思いますが、でもそんなスパナを好きになった、正一の自己責任な気もしたり。
ともかく、正一がボンヤリしていると、スパナが全部理解するのに半世紀は掛かりそうな予感がします(笑)