3:一人相撲、終わりよければ全てよし
四方を海に囲まれた島国。他国に攻められることもなく気候も穏やかなこの国は、おかげでとても呑気な国だった。
お城では今日も平和に会議という名の雑談会が行われている。世間話に花を咲かせているとき、一人の役人が入ってきた。
「王様、また異国の人が流れ着いたみたいなんですが。といっても、船に乗ってきたので、遭難したわけじゃないみたいなんですけど」
その言葉に部屋がざわめく。ゲオルグが流れてきて一ヵ月半ほどしか経っていないのに、めずらしいものがあるものだと人々は思った。
「連れてきているのか?」
早くどんな人か見たいという好奇心で満々な人々を代表して、王様のフェリドが尋ねる。
「はい。やっぱり言葉は通じないみたいなんですけど」
そう言って役人は、一旦部屋を出ていった。少し離れたところに待たせているようだ。
「もしかしたら、ゲオルグを迎えに来た人かもしれんなあ」
フェリドは少し離れたところでカイルの隣に座っているゲオルグに目を遣った。
「えっ、そんなのまだわからないじゃないですかー!」
フェリドの言葉に、ゲオルグではなくカイルが答える。その声には僅かな動揺が含まれていた。
「しかしな・・・おっ、来たようだ」
フェリドがカイルに何か言おうとしたとき、ドアが開いてさっきの役人と、もう一人が入ってきた。
その人物に、室内は更にざわめく。
その男が身につけているのは、最初のときゲオルグが着ていたのと似た服だった。そして、まるで女性のような優美な容貌をさらに引き立てている、艶やかな長い髪もまた、ゲオルグと同じで漆黒だ。
「・・・もしかして、知ってる人ですかー?」
フェリドの言ったことは正しいのかと、カイルは隣に座るゲオルグを見上げる。
「・・・いや、知らん。だが、たぶん、俺と同じ国の人だ」
ゲオルグはその服装と、腰に下げてある刀からそう推測した。
「ゲオルグ、彼と話をしてみてくれんか? 言葉が通じるのなら」
フェリドにそう促されて、ゲオルグはその男の前に進み出る。そして何かを喋った。すると男は嬉しそうに、何かを言い返す。
「どうやら、言葉は通じるようだな。うん、よかった」
最初の頃カイルたちとゲオルグが意思疎通するのにかなり苦労していたと、身をもっても知っているフェリドは安心したように笑った。
それとは対照的に、カイルは二人が何事か話しているのを、なんとも言えない気分で見ていた。
そんなうちに話に一区切りが付いたらしく、ゲオルグがフェリドのほうを向いた。
「船で旅をしていて、ここに着いた、そうです。少しここにいて、それから帰る・・・そうしたいそうです」
「なるほど。歓迎するよ、と伝えてくれ」
フェリドはゲオルグのときと同様に、あっさりと受け入れることを決める。王様に限らず、この国の人は基本的に誰にでもフレンドリーなのだ。
「それと、ゲオルグは彼が帰るまでついててやってくれ」
「・・・ええっ」
フェリドの言葉に、声を上げたのはゲオルグではなくカイルだった。
「彼はこの国の言葉を喋れないんだ、当然だろう。同じ国同士らしいから、積もる話もあるだろうしな」
フェリドはそう言って、カイルの抗議めいた声を一蹴する。
そんなフェリドに向かって、男は微笑んでから何か言って、頭を下げた。
「少しの間、お世話になります。名前は、ラハルです。と言っています」
ゲオルグの訳に、フェリドはラハルに笑顔を向ける。
「ゆっくりしていってくれ、ラハル。さ、ゲオルグ、さっそく案内してあげるなり話するなりしたらどうだ?」
「あ、お、オレも!」
フェリドの言った通りに部屋を出て行こうとする二人を、カイルは追いかけようとした。しかし、フェリドがそれに待ったをかける。
「カイル、おまえはこのあと勉強があるだろう?」
「うっ」
その一言にカイルは何も言い返せず、部屋を出る二人のうしろ姿を恨めしく見送るしかなかった。
カイルはその日の勉強を、最初はいつも以上に集中出来なかったのだが、途中からこのままじゃいつまで経っても終わらないと思って、いつも以上に頑張った。そして結局、いつもと同じくらいの時間でなんとか終わらせる。
勉強部屋を出ると、カイルはゲオルグのところに行こうと走り出した。ゲオルグはカイルが勉強している間は、自分の部屋か兵士の訓練場にいることが多く、今日はラハルと一緒だからどうかわからなかったがカイルは一応そこに向かった。
「あ、いた!」
カイルは勉強部屋から近いので訓練場に先に向かって、そこでゲオルグを発見した。広場の隅のほうでラハルと並んで立っている。ラハルは誰かに借りたのだろう、この国の服を着ていた。
普段はカイルもゲオルグもフェリドたちと一緒に昼食をとるのだが、今日はラハルが一緒だからかゲオルグはいなかった。だからカイルが二人を見るのは朝以来だった。二人は朝よりも随分親しくなっているように、カイルには映る。
カイルはなんだか悔しかった。カイルとゲオルグが打ち解けるのには、やはり言葉の違いは大きく、結構かかった。それなのにラハルは、国が同じだから、言葉が同じだから、いとも簡単にゲオルグとわかり合えている。それを思うとカイルは、無性に悔しかった。
そんな思いを抱えてカイルが近寄れないでいるうちに、ゲオルグはラハルに促されるように剣を渡されて、丁度手の空いていた兵士と手合わせすることになった。
ラハルがゲオルグに渡した剣は、ラハルがこの国に着いたときから持っていたもので、おろらくゲオルグたちの国の剣なのだろう。カイルの国の真っ直ぐな剣と違って、刃に当たるのだろう部分がゆるくカーブしている。
ゲオルグはそれを抜かずに左の腰の辺りで構え、相手との間合いをはかった。
そして、相手が抜かないのを不思議に思いながらその剣を振りかざしてきたとき、ゲオルグは自らの刀を滑らすように鞘から抜いて相手の剣を弾き飛ばした。
誰もが飛んでいった刀を目で追い、そしてゲオルグに視線を戻したときには、いつの間にかゲオルグの刀は鞘に戻っている。
一瞬で勝負がついたその手合わせを、いつものカイルなら、やっぱりゲオルグはすごいとはしゃいでいただろう。
しかし、歓声を上げる兵士たちギャラリーとは対照的に、カイルは何故かそんな気分にはなれなかった。
ゲオルグは剣を使うとき、他の人とはちょっと違った持ち方をする。カイルはそれが単なるゲオルグの癖だと思っていたのだが、きっとあの少し反った剣を使うのに適した持ち方だったのだろう。その剣を使った今のゲオルグの姿勢や動きは、とても自然だった。あるべき姿、そんなかんじだった。
カイルはまたなんとも言えない気持ちに襲われる。ゲオルグが、まるで自分の知らない人のように、カイルには感じられた。
「・・・めずらしいですな、カイル様のそんな顔は」
ゲオルグから目を逸らすように俯いたカイルに、声を掛けてきたのはこの国の剣術指南役であるガレオンだった。
「そ、そうですかー?」
カイルは慌てて笑ってみせた。しかしガレオンは、そんな作り笑いを浮かべた顔こそめずらしいと思う。しかしガレオンはそのことには触れず、話題を変えようと思った。
「しかし、ゲオルグ殿はやはりお強い。もう少しで国に帰ってしまうのが残念ですな」
「え、ゲオルグがそう言ったんですか・・・?」
ガレオンの相変わらず表情と同じく硬いセリフに、カイルはさっと笑顔を消す。ガレオンは話題をもっとやばいほうに移してしまったと気付いたが、今さらまた話題を変えるわけにもいかない。
「いえ。ただ、この国にいるのは迎えが来るまでだと、言っていたような気がしまして」
その言葉にカイルは、フェリドがラハルのことをゲオルグを迎えに来たのかもしれないと言ったことを思い出す。結局そういうわけではなかったが、しかしラハルは同じ国の人でそのうち帰るのだから、ゲオルグが国に帰るチャンスだということは変わらない。
「そ、そんなこと・・・」
カイルはゲオルグのほうに目を遣った。ゲオルグはラハルと話している。
昨日までのカイルだったら、きっとそんなことないと、はっきり言えた。しかし、カイルは今、そう断言することが出来ない。
言いかけて黙ってしまったカイルに、ガレオンはどうしてやっていいか困ってしまった。しかしそのうちに、兵士の一人に呼ばれてそっちに行ってしまう。
だがカイルはそんなことに気付かずに、ぼーっとゲオルグを見ていた。
ゲオルグが自分の国に帰ってしまうかもしれない。
今までそんなことを考えたことが、何故だか一度もなかったことに、カイルは気付かされた。
「あ、あれ、ラハルは?」
カイルはあのあと結局ゲオルグに声を掛けられず、夕食が終わってからこうしてゲオルグの部屋を覗き込んだのである。
「風呂」
ゲオルグが簡潔に答えた通り、お風呂のほうからは微かに水音が聞こえた。
ちなみに、カイルの部屋は風呂の他に三部屋あるのだが、一番大きな部屋が普段過ごす部屋で、それに加えて寝室と物置があった。ゲオルグが来てからはその物置が整理され、そこがゲオルグの寝室となったのだ。
そしてラハルは、滞在期間が短いとわかっているので、ゲオルグの部屋にやっかいになることになったのである。
「一人で大丈夫かなー?」
「困ったら呼ぶ、と」
ゲオルグは答えながら、ベッドの上でいつもの日記ではなくただの紙に、やはりカイルにはわからない文字で何かを書いている。それも気になったが、しかしカイルはもっと気になることをゲオルグに聞いてみた。
「・・・あの、このベッドで一緒に寝るんですかー?」
「充分大きいからな。俺の国のに比べると」
「・・・・・・」
肯定するゲオルグの言葉に、カイルは本日何度目かのなんともいえない気分になる。「俺の国」という表現が、今まで使われたときはなんともなかったのに、今は引っ掛かりを感じる。ゲオルグにとってこの国は、自分の国などではない、そういうふうにカイルには聞こえた。
「あ、あの、ゲオルグはオレのところで寝たらどうですかー? ほら、オレのベッドのほうがもっと大きいし!」
「・・・・・・そうだな」
ゲオルグがそう答えるのと同時くらいに、ラハルが風呂から上がってきた。ゲオルグに借りたらしく、浴衣と呼ぶらしいゲオルグの国の寝巻きを着ている。
ゲオルグはラハルに声を掛けてから風呂に向かった。そうすると、当然だがこの部屋にはカイルとラハルが二人きりになる。
しばらくは丹念に髪を乾かしていたラハルは、ふと気付いてゲオルグがベッドの上に出したままにしていた紙を手に取った。それを読みながら、途中でカイルに目を遣る。そして、笑った。
その笑顔が意味するものがなんなのか、カイルにはわからなかったが、しかし嫌な気分になる。笑われたことよりもむしろ、自分の知らないゲオルグをラハルが知っているような、そんな気にさせられたことにである。
カイルはラハルに何も言わずに部屋を出た。どうせ言葉は通じないのだから、とゲオルグのときには思わなかったことを思いながら。
ゲオルグの言ったことがわからなかったとき、カイルは絶対にゲオルグにこの国の言葉を喋れるようにしてやると思った。しかしラハルに対しては、カイルは何故かそんな気持ちに少しもなれなかった。
それから数日。
昼間はゲオルグはほとんどラハルと一緒で、カイルはずっと微妙な距離をとっていた。その代わり、夜はそれ以前のように過ごしている。しかしカイルは、まだ聞くことが出来ずにいた。
ゲオルグは、ラハルと一緒に、自分の国に帰るのだろうか。
ずっと気になっているのに、それでも本人に確かめることが出来なかった。
「どうした、カイル。食欲ないのか?」
今は朝食の時間だ。あまり手が動いていない息子を心配して、フェリドが声を掛けた。
フェリドの言った通り、日々重くなっていく気分は、食べるのが大好きなカイルから食欲を少々失わせていた。しかし今食べておかないとどうせ昼前におなかが減ってしまうので、カイルはなんとか手と口を動かし始める。
そんなかんじで朝食とその後の会議をやり過ごしたカイルは、勉強室に向かおうととぼとぼ歩きだした。
しかしそんなカイルを、フェリドが引き止める。
「カイル、ちょっといいか?」
「・・・はいー?」
立ち止まったカイルを、フェリドは誰もいない執務室に連れて行った。
「勉強、今日は休んでいんですかー?」
「いや、話はすぐに終わる」
「なんだー」
残念そうに口を尖らせるカイルに、フェリドはこっそり溜め息をつく。勉強嫌いだからアホなのか、アホだから勉強嫌いなのか、むしろそのどっちもなのだろうとフェリドは何度目かになる結論を出したのである。
「でだな、ゲオルグが国に帰るかどうか、聞いているか?」
「え、う、き、聞いてないです・・・」
フェリドがずばっと切り出したその言葉に、カイルは思いっきり動揺しながら答えた。
「そうか、聞いていないか。俺たちもどうしても聞きにくくてな」
「え、なんで・・・?」
「俺たちが聞くとどうしても、その言葉に出来ればいて欲しいという気持ちが滲んでしまうからなあ。ゲオルグはおそらく俺たちに恩を感じてるだろうから、俺たちの気持ちを知れば国に帰ろうと思っていたとしても、きっと迷いが生じてしまうだろうしな・・・」
フェリドが難しそうな顔で語るのを、カイルは途中から少々話がわからなくなりながら聞いていた。しかし、カイルにはフェリドたちの聞かない理由などどうでもいい。
「・・・みんなも、ゲオルグに帰って欲しくないんですかー?」
「ん? ああ、そりゃあね」
「だ、だったら・・・」
続けようとしたカイルは、しかし自分を見下ろすフェリドの目つきに、思わず言葉をとめた。いつもはおおらかな性格を表して、穏やかなことが多いのだが、今はめずらしく鋭く厳しい。
「カイル、その人がいるべき場所は、その人が決めるんだ。それはわかるな?」
「・・・はい」
フェリドはまるで小さい子供に言い聞かせるような口ぶりで言うが、まあそれはいつものことなのだ。
「だからな、カイル。帰るか帰らないかは、ゲオルグが決めることなんだ。その決定を、わがままで引き止めたりして、じゃましてはいけない」
「・・・は、はい」
「だから、もしゲオルグが帰りたいと言ったら、ちゃんと笑顔で見送ってあげるんだよ」
「・・・は・・・ぃ・・・」
諭すように言うフェリドの言葉に、しかしカイルの返事は段々と歯切れ悪くなっていく。
「・・・カイル」
フェリドは少し口調を和らげて、カイルの肩に手を置いて言う。
「お前がゲオルグと随分仲良くなって、出来れば帰って欲しくないと思う気持ちは、よくわかる。でもな、カイル」
見上げてくるカイルの頼りなげな目つきに、フェリドはつい甘やかしてしまいそうになるのを抑えながら続ける。
「相手の気持ちを尊重出来るということ、それが本当に相手のことを思っているということなのだ」
「・・・・・・・・・はい」
ゆっくり覗き込むように言ったフェリドに、カイルは小さくだが頷いた。
それを見てフェリドは、カイルの頭を撫でてから優しく笑う。つらいだろうが、これを乗り越えればきっと成長出来るだろう、そう思って。
「さ、勉強を頑張ってきなさい」
「・・・はい」
促されるように背中を押され、カイルは執務室を出た。
そして歩きながら考える。もしゲオルグが自分の国に帰りたいと言ったら、どうするのだろう、と。
フェリドが言ったことが正しいことはカイルにもわかる。しかし、カイルには笑顔で見送るなんて、そんなこと出来る自信がなかった。
「ゲオルグの帰りたい場所、いるべき場所・・・かー・・・」
カイルはそれがこの国だとどんなにいいだろうと思った。ずっとこの国に、自分の側にいてくれたら、どんなにいいだろうと思った。
「・・・でも、もしそれが、元いた国だったら」
笑っては無理かもしれないが、しかしちゃんと送り出してやらないといけないのだと、カイルは自分自身に言い聞かせるように何度も心の中で繰り返した。
「あさって、帰るのか?」
フェリドの確認の問いに、言葉が通じないラハルの代わりにゲオルグが頷く。
「そろそろ家族が心配しているだろうから、だそうです」
「そうか。残り少ないが、楽しんでいってくれ」
フェリドはそう声を掛けるだけで、やはりゲオルグにはどうするのか聞かない。
それをフェリドの隣で聞いていたカイルは、昼食を食べていた手を思わずとめた。昨夜も朝もそんなことを言っていなかったから、午前中に決めたことなのだろう。
明後日ラハルが自分の国に帰る。ゲオルグも、帰るかもしれない。
カイルもまだゲオルグにどうするのかを聞いていなかった。それは、フェリドの言ったようなゲオルグを迷わせない為ではなく、やはりその結論を知ることが怖かったからだ。
しかし、カイルは思った。もしゲオルグが帰ってしまうのなら、もう明後日までしか一緒にいられない。
最近ゲオルグは昼間はずっとラハルと一緒だった。夜は一緒なのだが、カイルは早寝なので一緒に過ごす時間は自動的にとても短くなる。
もし、ゲオルグが帰ってしまうのなら。考えたくはないが、もし、帰ってしまうなら。あと、三日しかないのだ。
昼食が終わって勉強の時間、カイルはいつもより頑張って早く終わらせた。今度こそ、ゲオルグにどうするつもりなのか聞こうと思ったのだ。帰ってしまうのか、帰らずここにいるのか。
もし帰ってしまうのなら、それまでの間、出来るだけ一緒にいたい、そう思ったから。
しかし、帰らないのかもしれないと、そう思いたい気持ちのほうがやっぱり強いことに、カイルは気付いていた。
勉強室を出て、カイルはすれ違う人ごとにゲオルグがどこにいるか知らないかと聞きながら走った。そのうちに城を出て、市場に繋がる道で通り掛った四十ほどの婦人にも聞いた。
「ね、ゲオルグ見ませんでしたー?」
「ああ、さっき会ったわよ」
その返答に、カイルは走りっぱなしだったのと、もうすぐ答えを聞くのだという思いで胸がどきどきし始めた。
しかしカイルのその動悸は、次の瞬間、一気に冷めてしまう。
「でも、カイル様も寂しくなるわね。ゲオルグさんが帰ってしまうと」
「・・・え、ゲオルグがそう言ったんですか・・・?」
残念そうに言うその婦人に、しかしこの人が勝手に思っているだけかもしれないと、カイルは何とか思い直す。
「それがね、さっきお土産になるようなもの買いたいって言ってて、私がだったらいい店あるからって紹介したのよ」
「買うのはラハルだけじゃないんですかー?」
「確かゲオルグさんが、自分の家族に買いたいって、言ってたわよ」
斜め上のほうを見て思い出しながら言う婦人の言葉に、カイルは心臓を鷲掴みにされた気分になった。
ゲオルグが、自分の家族にお土産を買う。それが何を意味するのか、カイルには一つしか思い浮かばなかった。
ゲオルグは、自分の国に帰るつもりなのだ。
「げ、ゲオルグどこっ!?」
「その道を真っ直ぐ行って、赤い屋根・・・カイル様っ!?」
カイルは最後まで聞かずに駆け出していった。人にぶつかるのも気にせずに全速力で走る。
カイルの頭の中には、もうたった一つの思いしかなかった。父の言ったことや自分がいろいろ考えていたことなんか消え失せて、たった一つの思いだけ。
赤い屋根の店が見えて、カイルはそこにゲオルグの姿を発見した。その隣で話し掛けているラハルには目もくれずに、カイルはゲオルグに真っ直ぐ向かっていく。
「ゲオルグっ!!」
大声を上げたカイルに、周りの人と同様にゲオルグも振り返る。そのゲオルグの胸に、カイルは抱き付くように飛び込んでいった。
「ゲオルグ、帰っちゃ嫌ですー!!」
カイルは周囲の視線なんて気にせずに、しがみ付いた腕の力を緩めずに言う。
ゲオルグが帰ってしまう、もう二度と会えなくなる。そのことの前で、カイルは何も考えられなくなった。
子供っぽいと笑われても、わがままだと怒られても、人になんと思われようとカイルは、自分の気持ちを抑えることが出来なかった。
「帰らないで、オレの側にいて下さい! ずっといて下さいー!!」
叫ぶように言ってカイルは、どこにも行かせないというふうにゲオルグの体に腕を回す。
帰って欲しくないと言えばゲオルグを迷わせてしまうとフェリドは言った。しかしカイルは、もし帰ろうと思っているのなら、迷って欲しかった。自分が引き止めることで少しでも考え直してくれるのなら、それが卑怯なことであっても構わなかった。
ゲオルグに、帰らないで欲しい自分の側にいて欲しい。カイルの心を占めているのは、ただそれだけだった。
「ここに、いて下さい!! ずっと、ずっとオレと一緒に・・・!」
何度も繰り返しながら、カイルは腕に込める力を益々強めていく。
そんなカイルを、ゲオルグはずっと黙って見下ろしていたが、やがてゆっくりと手を動かした。
カイルの頭を、優しく撫でる。
「帰らない」
ゲオルグは小さいがしかしはっきりした声で言った。カイルはそれでも聞き間違いかもしれないと、まだゲオルグから離れようとはしない。
「俺は、帰らない」
ゲオルグはもう一度、カイルを抱き込むようにしながら言った。そのセリフと背中に回された腕に、カイルはやっとおそるおそるだが顔を上げる。
「ほんとですかー・・・?」
「ああ。俺は、ここに・・・カイルの側にいる」
僅かに苦笑しながら、ゲオルグはカイルの目元に手を遣った。そこでカイルは、やっと自分が涙を流していることに気付く。
しかしカイルは、こんな衆人環視の中で泣いてしまって恥ずかしいなどとは全く思わなかった。
「よ、よかった・・・よかったですー・・・!!」
ずっと聞けなかった、帰るか帰らないのかを。ずっと言えなかった、帰って欲しくないと。
ずっと溜めていたそれらの思いが、一気に溢れてきて、カイルは何がなんだかわからなくなった。
ゲオルグが帰らない。ただそのことだけが、今のカイルに確かなことで、堪らなく嬉しいことなのだ。
とまらない涙で言葉を途切れさせながら強く抱き付くカイルを、ゲオルグは落ち着くまであやすように優しく撫でてくれていた。
「カイル、今日おまえは泣いてゲオルグに帰るなと言ったそうだな」
「・・・・・・・・・は、はい」
夕食の時間、フェリドに怒るというよりは呆れたような目線と共に言われて、カイルはごまかすように笑いながら控えめに頷いた。
思い返してみるとちょっと恥ずかしかったが、しかしカイルは後悔などしていなかった。ゲオルグが帰らない、それを思えば人前であんな姿を晒してしまったことなど、カイルにとってはなんでもないことなのだ。
実のところ、そんな気にしていないカイルよりも、まだまだ子供なんですねといろんな人に口々に言われたフェリドのほうが、よっぽどそのことで恥ずかしい思いをした。
「俺は忠告したはずだが・・・?」
「・・・・・・は、はい」
フェリドのお叱りに、カイルは反省した様子を見せようとしゅんとしてみせるが、しかしすぐにその顔は綻んでいく。
「カイル、聞いているのか?」
「あ、はいっ」
明らかに聞いていなかったカイルは、それでも調子よく返事した。そんなカイルに、フェリドはどうしても溜め息がもれるのを抑えられない。
「すまんな、ゲオルグ。遠慮とか後悔とか、していないか?」
フェリドは顔をゆるませているカイルから視線を外して、少し離れたところにラハルと座っているゲオルグのほうを向いた。
「いえ、最初からそのつもりでした」
「そうか。しかし、あんまりカイルを甘やかすことないぞ」
あまり人のことを言えず苦笑いしながら言うフェリドに、ゲオルグは曖昧に頷く。どうやら甘え上手らしいカイルを甘やかさないことは、誰にだって難しいのだ。
「カイル、おまえももう少し、ほんの少しでもいいから、大人になれよ?」
それでもフェリドは一応カイルに諌めるように言った。しかし浮かれている今のカイルに、それが全く効かないことは確実だろう。
「はーい」
そして予想通りカイルは、へらへら笑いながら適当に答える。
それは、しかし一概にカイルだけが悪いとはいえないのだ。何故なら、最近ずっとどうにも沈んでいたカイルが、今はこうしてにこにこ笑っているのを、誰もが嬉しく思ってしまっているからである。
そんなかんじで和やかに夕食を終わらせ、カイルたちは部屋に戻った。
ゲオルグとラハルはベッドに置いていた、買ったらしい品物を手に何か会話を始める。その二人が手にしている品物は、カイルが早とちりしてゲオルグが帰るんだと思い込んだ原因のお土産である。ゲオルグが家族に買ったものだということに違いはないのだが、ラハルに渡してもらうつもりなのだそうだ。
そこでカイルは、今さら気付いた。生まれ育った国ということは、そこに家族や友達がいるのは当然なのだ。それを思えば、確かに帰るななんて軽はずみに言ってはいけないセリフだろう。勿論カイルは軽い気持ちで言ったわけではないのだが。
しかしゲオルグは、そんな国に帰るよりも、この国にいることを選んだ。
カイルは最初少し反省していたはずが、途中から嬉しい気分になって、やっぱり笑いがとまらなくなった。
そうやってカイルが一人の世界に入っているうちに、いつの間にかラハルはお風呂に行ったらしく姿を消していた。ゲオルグは数日前にも書いていた紙の文字を書き換えている。家族への手紙だそうだ。
「オレのことも書いてるんですかー?」
カイルはゲオルグの手元を覗き込んだ。相変わらずカイルにはなんて書いてあるのか全くわからない。
「・・・書いてある」
「どんなふうにですかー?」
興味津々で聞くカイルに、ゲオルグは目を遣った。そして、少し間をおいて、口を開く。
「・・・カイル、――――」
「え、なんですかー?」
カイルは聞き取れなかったのか知らない言葉だったのか、どっちだろうと思って聞き返す。しかしゲオルグは、僅かに笑って、何も答えなかった。
「もー、なんですかー」
口を尖らせながらも、しかしカイルの浮かれた気分は全く沈みはしなかった。これから、いくらでも聞く機会はあるのだ。
ゲオルグはこの国にいる。ずっと、自分の側にいる。
カイルはそう思って、まるでラハルが来て以来のぶんを取り戻すように、ひたすら嬉しそうに笑っていた。
END
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まだカイルは無自覚ですよー、これでも。あ、ちなみに、18歳くらいです・・・これでも!
ラハルは、幻水Vで「黒髪の男」を探したところ、他にピッタリくる人がいなかったので。意外と少ない黒髪。
(さすがにレツオウとかミューラーさんはちょっと・・・ね!笑)
あ、最後のゲオルグのセリフは、次のゲオルグサイドの話で!